「夜は短し歩けよ乙女」から考えるデフォルメの効果



「夜は短し歩けよ乙女」では、冴えない大学生である先輩が、後輩の黒髪の乙女に恋をし、かといって正面切って告白することもできずに、「なるべく、かのじょの、めにとまる」ナカメ作戦を実行している中で巻き込まれていく奇想天外な騒動を描いていたのですが、一歩間違えば、いや一歩間違わなくともストーカーともとられがちな行為ですが、これが果たして効果的なのか?

・・・っていう話題で書こうと思ったのですが、このネタはすでに「ヒメアノ~ル」の考察のときにやってしまっていたので、興味がある方はぜひこちら(「ヒメアノ~ル」から考える単純接触効果)を御覧ください。

ということで今回は、内容ではなく表現技法の方に注目してみたいと思います。

湯浅監督の作品は本作だけでなく、「MIND GAME マインド・ゲーム」「ピンポン THE ANIMATION」、そして本作の直後の公開となった「夜明け告げるルーのうた」でも、その大胆すぎるデフォルメ表現が話題となっています。

デフォルメとは、本来は絵画や彫刻などの対象を力学的に変形することを言いますが、現在では、こうした芸術的表現や作品の対象、多くの場合はその登場人物の特徴を誇張、強調したり、あるいは簡略化、省略化したりすることを指しています。

それでは、このデフォルメ表現ではどのような心理的効果があるのでしょうか?

Ida, Fukuhara, & Ishii(2012)では、実際のテニスプレーヤーに、サーブの動きを再現したCGアニメーションによって見せました。このときに、CGアニメにポリゴンを用いてより実際の人間らしく見せたパターンと、色彩や形状情報をなくしたいわゆる棒人間的なキャラクターで見せたパターンとで比較したところ、後者のほうがスピードの知覚が遅くなっており、より動きを正確に認識していたということが示唆されました。

つまり、情報量が多いときよりも、必要な情報のみに絞ったほうが、よりその情報が伝わりやすいということを示しています。

なるほど、「ピンポン THE ANIMATION」でも顕著でしたが、本作でも、あの詭弁踊りのような想像だにしない動きを再現したり、奇妙奇天烈な人物たちを描くには、通常の描き方では難しく、デフォルメして描いたことでよりファンタジーとしての世界観が高まったのかもしれませんね。

こうした表現が可能なのも、実写ではなくアニメーションであることの魅力かもしれませんね。

[引用]
Ida, H., Fukuhara, K., & Ishii, M.(2012). Recognition of Tennis Serve Performed by a Digital Player: Comparison among Polygon, Shadow, and Stick-Figure Models. PLoS ONE, 7, URL: https://doi.org/10.1371/journal.pone.0033879.
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「夜は短し歩けよ乙女」感想。


(公式HPより引用)

[story]
京都の大学で冴えない青春を送る先輩(星野源)は、サークルの後輩である黒髪の乙女(花澤香菜)に恋をし、「なるべく、かのじょの、めにとまる」ナカメ作戦を実行していた。しかし、天真爛漫で好奇心旺盛な乙女が、京都の街で出会う奇妙な人たちと摩訶不思議な出来事に、先輩も巻き込まれて行くのだが・・・。

森見登美彦の同名小説のアニメ映画。
監督は、「MIND GAME マインド・ゲーム」「ピンポン THE ANIMATION」の鬼才・湯浅政明。

森見登美彦の同名小説は、個人的には五本の指に入るぐらいの傑作小説だと思っていて、それだけ思い入れのある原作小説だから映画化となると、見たいような見たくないような複雑な気持ちになるのですが、そこは、同じく森見登美彦原作でアニメ化されていた「四畳半神話体系」の制作陣が本作も担当ということで、これは一安心ということで見に行きました。

キャラクター原案は森見登美彦の本のデザインもしている中村佑介だし、主題歌もASIAN KUNG-FU GENERATIONだし、おまけにアジカンのジャケットデザインのキャラクターも中村佑介なので、いかに親和性が高いかは分かってもらえるかと思います。

とはいえ、原作はとにかくぶっとんだキャラのオンパレードなので、そのまま映画化するだけでもお腹いっぱいになりそうなのに、その雰囲気や世界観を映像で表現することが可能なのかに注目していました。

基本的な構成は、黒髪の乙女が遭遇する人たちや不思議な出来事と、その彼女に横恋慕している先輩が巻き込まれる騒動を描くというもので、その一つ一つのエピソードが実に個性的なのが魅力だと思っています。

例えば、乙女が途中で遭遇する詭弁をぶつけ合う詭弁論部という団体がいるのですが、そこで部員たちの名物となっているのが詭弁踊り。これどうやって映像化するんだろう?って思ってたら、まさにコレ!という形で再現してくれました(原作者の思惑はわかりませんけど)。

湯浅監督の造形を留めない変幻自在なキャラクターの動きがまさに活かされていると言えるでしょう。そしてこれが現実にいながらも異世界感を演出することにも一役買っています。

原作と映画の違いというところで言うと、まず1点目は、黒髪の乙女が探している「ラ・タ・タ・タム」という絵本があります。
これはかつて黒髪の乙女が持っていたのにいつしかなくしてしまっていたもので、原作ではナカメ作戦の1エピソードにすぎない印象だったのですが、映画では先輩と乙女の関係を示すキーアイテムとなっています。

2点目としては、原作でもわりと中心に描かれている学校祭が、映画版では、その一催しであるゲリラ演劇「偏屈王」に絞られています。これはパンツ番長の恋の物語を描いているのですが、原作よりもミュージカル調にしていて映画映えするということもあるでしょうし、尺的な問題もあってこのエピソードに絞ったのかもしれませんね。

そして、3点目は、原作では春夏秋冬の4つの季節をそれぞれ章にして描いていたのですが、本作はなんと、それを一夜の物語にまとめ上げているのです。
一晩にしてはいろんなことが起こり過ぎな印象もありますが、その分全体の疾走感につながっていますし、やはりこれがある種のファンタジーであるととらえることも容易になります。
そして何より、このタイトルなのだから、夢のような一夜であるというのもうなずける話ではないですか。

原作の世界観を残しながらも、単に原作をトレースするだけではなく、むしろ原作以上にストーリーや展開、設定に深みをもたらしたのはやはり湯浅監督はじめ、制作陣の原作への愛と映画化への切なる思いの結晶なのではないでしょうか。

2016年の豊作すぎるアニメ映画界に続けとばかりに、今年も期待作が目白押しですね。

「SING / シング」から考える歌うことの心理学的効果



「SING / シング」では、それぞれの思いや悩みを抱えながらもステージに立って歌いたいという夢を追い求める作品でした。

音楽のもたらす心理学的効果の研究はたくさんあるのですが、大半は、音楽を「聴くこと」の効果の研究になっています。
というのも、一般の人にとっては歌や音楽は聴く機会が圧倒的に多く、歌ったり、楽器を演奏したりするのは専門的にやっている人や趣味の人に限られているため、研究の数としては限られたものになってしまっているのです。

歌うことの効果の研究は、実は日本は世界的に見ても多く研究されている方で、その一つの要因はやはり「カラオケ」でしょうか。
日本では世代関係なく趣味や娯楽の一つとしてカラオケが定着しているので、それを研究対象とするというのも増えてきているようです。

カラオケで歌うと、ストレス発散になる、という人は多いと思うのですが、歌がうまくなかったり、恥ずかしがり屋だったりすると、その効果は得られないのではないかとも考えられます。

Sakano et al.(2014)では、44人の60歳以上の被験者を対象に、カラオケを歌う前と後でのストレスレベルに違いがあるかを調査しました。
その結果、気分がリフレッシュした、快適な気分、嬉しい気分、リラックスしたといった項目への回答が高まっていることが示されたとともに、ストレスホルモンとも呼ばれるコルチゾールが減少していることが示されました。
これは心理的にも生理的にも歌うことの効果があったということを示しています。

さらには、事前に歌うことが嫌いだと言っていた人においても同様の効果が見られたことからも、いかに効果が大きいかが分かります。

ということで、ストレスがたまっている人は、Let's sing a song!

[引用]
Sakano, K., Koufuchi, R., Tamaki, Y., Nakayama, R., Hasaka, A., Takahashi, A., Ebihara, S., Tozuka, K., & Saito, I.(2014). Possible benefits of singing to the mental and physical condition of the elderly. BioPsychoSocial Medicine, , 2014 8:11.

「SING / シング」感想。


(公式HPより引用)

[story]
コアラのバスタームーン(マシュー・マコノヒー/内村光良)は、潰れかけの劇場の支配人をしていた。彼はかつての賑わいを取り戻そうと歌のオーディションを企画する。しかし、秘書のミスで賞金額が2ケタ多くなってしまったせいで、応募者が殺到するハメに。内気なゾウのミーナ(トリー・ケリー/MISIA)、ヤマアラシの少女、アッシュ(スカーレット・ヨハンソン/長澤まさみ)、ギャングの息子でゴリラのジョニー(タロン・エジャトン/大橋卓弥)など、様々な事情を抱えた参加者たちがオーディションに挑むのだが・・・。

「怪盗グルー」シリーズや「ミニオンズ」のイルミネーション・エンターテインメントによるアニメ映画。
監督は本作が自身初のアニメ作品となる「銀河ヒッチハイク・ガイド」「リトル・ランボーズ」のガース・ジェニングス。

イルミネーション・エンターテインメントは、実は「怪盗グルー」シリーズ本編を見たことがないので、上記の「ミニオンズ」と「ペット」を見たぐらいですね。
監督の作品、特に前作の「リトル・ランボーズ」は映画少年の夢がいっぱい詰まっている作品で今も印象に残っています。
それから9年たっての本作、それもアニメということではたしてどうなのでしょう?

基本的には、潰れかけの劇場の立て直しということで、ありきたりのサクセス・ストーリーというのが骨子になっています。

ただ、そのためのバスターのアイデアが歌のオーディションを開催するというもので、劇場ならばそれぐらいの企画は珍しくもなんともないと思うので、これが起死回生のアイデアとは呼び難いという印象を最初に持ってしまいました。

その後も、賞金の記載ミスはマンガ的な要素としてあっても構いませんが、正直そこまで引っ張るネタではないと思うし、金策の手段も友だちのエディーの祖母ナナの財産を当てにするだけなので、非常に短絡的です。
そもそも主要なオーディションメンバーはお金よりも歌いたいという気持ちがあるから参加しているのだから、賞金そのものの引っ張りが不要な気がしたんですよね。

賞金1000ドルのはずが10万ドルに!→応募者殺到→賞金が1000ドルとバレる→応募者去っていく→残ったものたちで!

こんな展開にしておけばよかっただけなのになんだかテーマをぼかす役目にしかなっていませんでした。

他にも料金未払いで電気が止められたらとなりのビルから引っ張ってきたり、差し押さえで出入り禁止となって劇場にしれっと入り込んでオーディションを強行しようとしたりと、もはや法の壁を超えちゃっております。
もちろんこれもベンチャー魂みたいな感じでとらえることもできなくはないのですが、劇場の経営不振は起こるべくして起こったという印象しかありませんでした。

それでも肝心の音楽や芸術に対する耳目は肥えているのじゃないか?
そんな期待も最初のオーディションであっさりと潰えます。
キリンが背が高すぎてこちらの声が届かなかったので合格のはずが取り消しになり、なんとなく目についたジョニーの方が合格になるのです。
ビジネスセンスはおろか芸術に対する嗜好性もあまり高くないのではと思ってしまいました。

その後に、まさに文字通り、劇場は崩壊を迎えるのですが、この流れに乗れなかった自分としては、まあラストも読めるし残念ながらストーリー的に惹きつけるものはなかったということになります。

逆に、それぞれのキャラクターは非常にしっかりしていて、このオーディションに賭けるそれぞれの思いもしっかりと伝わってきます。
そして本作を彩る音楽もまた素晴らしいです。
歴代のポップシーンを湧かせた音楽が多いのですが、自分が見た日本語版でもMISIAや大橋卓弥など本業歌手の人の歌はもちろん、長澤まさみやトレンディエンジェルの斉藤さんもうまくて、そのシーンだけでも一見の価値ありです。

それだけに、ストーリーさえもっとしっかりしていれば傑作になったかもしれないと思うと残念ですね。
ディズニーが傑作を連発し続けているだけにまだまだ及ばずといったところでしょうか。

「暗黒女子」から考える自己愛性パーソナリティ障害



注!本記事には、「暗黒女子」のネタバレがうっすらと含まれております。



「暗黒女子」では、ミッション系の女子校を舞台に、学校の経営者の娘で、学業優秀、容姿端麗で全校生徒の憧れだった白石いつみが謎の死を遂げるところから物語は始まります。

そして、彼女への餞として、彼女が作った文学サークルで、メンバーが一人一人、「いつみの死」というテーマで自作の小説を発表することになります。

その朗読会で読まれた小説は、いつみがこのサークルのメンバーの誰かに殺された内容を示唆するものでした・・・。


ということで、本作は、「誰がいつみを殺したのか」が焦点になってくるわけですが、上記のように、いつみは学校の他の生徒全てから憧れの存在で、常に周りからの注目と羨望を浴びている状況でした。
しかし、それだけでは彼女にとって不十分で、自分が主役であり続けるために、周りのすべての人たちを脇役とみなしていたのです。

自己中心的だとか、うぬぼれだとか、そういう表現は一般的な性格特性を表す言葉として用いられますが、これが病的なレベルになると、自己愛性パーソナリティ障害(Narcissistic personality disorder; NPD)と呼びます。

これは、Kohut(1968)により初めて精神的な病理として提唱され、1980年の精神障害の診断と統計マニュアル(DSM-Ⅲ)に掲載されると、広く認知されるようになりました。

現在のDSM-Ⅳ-TR(アメリカ精神医学会, 2014)では、以下のように定義されています。

誇大性(空想または行動における)、賛美されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになるとされています。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示されるものです。

1. 自分が重要であるという誇大な感覚
2. 限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想への固執
3. 自分が特別で独特な存在であり、特別な対象だけがそれを理解しうるという盲信
4. 過剰な賛美への希求
5. 特権意識
6. 対人関係における相手の不当な利用
7. 共感の欠如
8. 他者への嫉妬、または他者が自分に嫉妬しているという思い込み
9. 尊大で傲慢な行動、または態度


うーん、いつみに当てはまっているような気もしますね。

もちろん、ナルシストなタイプの人間は少なからずいて、その誰もが病的なレベルというわけではありませんが、これが苦痛を伴ったり何らかの機能障害をもたらすような場合には要注意ということです。

あなたの周りにはいませんか・・・?


[引用]
アメリカ精神医学会(2014). DSM-IV-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル

Kohut, H.(1968). The Psychoanalytic Treatment of Narcissistic Personality Disorders: Outline of a Systematic Approach.
プロフィール

すぷーとにく0107

Author:すぷーとにく0107
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中の人は、北海道は札幌市在住です。
映画館で年間200本は映画を観ます。
当ブログでは、映画のレビューをしつつ、勉強している心理学ネタでも書いていけたらいいなと思っています。

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