「ルーム」から考える子どもの発達と課題



「ルーム」では7年間「部屋」に監禁された女性とその間に生まれた息子の姿を描いていますが、このような監禁事件はたびたび発生しており、日本でも新潟で起きた少女の監禁事件(その期間が9年以上!)や、今年になって犯人が逮捕され開放された埼玉県での事件などがあります。

さて、「ルーム」ではジャックは生まれてから1度も外に出たことがないという状態でした。このような特殊な、異常な環境で生まれ育った子どもが、その後の発達にどのような影響があるのか?というのは心理学だけではなく、生物学、人類学、教育学など様々な分野で話題になりますが、倫理的な視点で考えれば、実験的に調査することは不可能な分野でした(子どもを意図的に隔離して育てるということは当然ムリ)。

1970年、アメリカのカリフォルニア州で、ある母子が保護されます。
母親はほとんど失明しており、娘は4、5歳程度の見た目で言葉を話すことができませんでした。
この母子は父親による虐待に耐えかねて逃げてきたことが判明し、特に、娘は生まれて間もない頃から暗い室内に監禁されており、ほとんどの時間を幼児椅子に括りつけられた状態だったそうです。
そして、この少女(仮名:ジーニー)は、実はこの当時13歳であるということも判明します。

ジーニーは、生まれてから13歳になるまでの生育環境で、適切な刺激を一切与えられない状況だったため、発達における環境要因の影響を調べるための格好の研究材料となってしまいます。
とりわけ、当時は幼少期に学習しなければ身につけられないと考えられていた言語獲得についてはアメリカだけでなく世界中から注目されることとなりました。

言語獲得とは、文字通り、言語を獲得することで、読む、書く、話す、聞くといった言語情報の基本的なやりとりにかかわる能力を身に付けることです。
人間性の発達において重要視されるのが、適切な時期に適切な刺激を受けることだと言われているのですが、言語獲得においては、2~3歳の時期に大人(たいていの場合は養育者)が話している言語や絵本を呼んだりテレビ、ラジオなどの音声を聞いたりすることが重要になってきます。
この適切な時期のことを臨界期と呼びます。

ジーニーはその後の教育によって、2語文はすぐに習得します。
2語文とは、主語+動詞のような簡単な文で、「ママ、来た。」とか「ワンワン、いる。」といったものです。通常であれば1~2歳の時期に話すようになり、その後はより複雑な文章を構成し、話したり、理解したりすることができるようになります。
ジーニーの場合、その後の進歩があまり見られず、必要な文章を省略することも多く、相手に意味を伝えられないことが多々ありました。
最終的には手話を交えながら最低限の意思疎通が可能な状態になりました。これにより臨界期がそこまで厳格なものではないのかもしれないという学説も出てくるようになりました。

「ルーム」におけるジャックは、監禁されていたとはいえ、常にママと一緒だったので、ジーニーとは同列で語ることはできないかもしれません。
確かに、ママはジャックに絵本の読み聞かせをし、たくさんの会話をすることで、通常の言語獲得が行われている印象でした。
ただし、ジーニー同様、環境的な要因により制限は多かったように思います。
遊びの制限、社会性の制限の2点です。

遊びの制限について、ジーニーの場合、真っ暗な部屋に監禁されており、おもちゃは一切与えられておりませんでした。部屋の中にあったのがミシン用の糸巻きとチーズのプラカップだけでした。それだけが唯一の刺激となるものだったので、彼女はこの2つで遊んでいたことが考えられます。そして、その後もプラスチック製品に対して異様な執着を見せたとのことです。

Parten(1933)は、乳幼児期の遊びを6つのタイプに分類しています。
1.ぶらぶらした無目的な遊び(unoccupied play):
部屋の中をうろうろしたりあたりを見回したり、明確な目的がないような遊び。
2.ひとり遊び(solitary play):自分一人だけで行う遊び。
3.傍観遊び(onlooker play):
他の子どもが遊んでいるのを見て話しかけたり質問したりするが、遊び事態には加わらない。
4.平行遊び(parallel play):
他の子どものそばで同様の遊びをするが、それぞれが別個に遊び、相互に干渉しない。
5.連合遊び(associative play):
他の子どもと一緒に遊び、おもちゃの貸し借りなどはあるが、分業や組織化がされていない。
6.協同遊び(cooperative play):
何らかの目的に向かって他の子どもと一緒に遊ぶ。役割分担や協力行動が見られ、リーダー役ができる場合もある。

上記のような発達プロセスにおいて、3あたりから他の子どもの存在の影響が見られます。発達の段階から考えると2~3歳あたりの時期に該当しますので、この時期に周りに遊んでいる同じぐらいの歳の子どもがいないということは大きな問題となる場合があります。
さらに5からは他者とのコミュニケーションが必要となってくる段階になりますので、なおさら他者の存在が重要視されます。

「ルーム」の作中では、ジャックがスマートフォンでアニメを見ていると、「レゴで遊びなさい!」とママが叱るシーンがありますが、スマートフォンによる遊びは必然的に4までに該当するものになるので、これはジャックに限らずですがスマートフォンを遊び道具として渡してしまうのも考えものかもしれませんね。

Bühler(1931)では、遊びの種類で分類をしています。
1.機能遊び(functional play):
感覚や運動機能を活用し、それ自体を楽しむ遊び。ガラガラやボール遊び、ブランコなど。
2.虚構遊び(imaginative play):
現実を離れた想像による遊び。ごっこ遊びなど。
3.受容遊び(receptive play):
外的な情報を受け入れる遊び。絵本の読み聞かせ、人形劇鑑賞、音楽を聴く、など。
4.構成遊び(creative play):
何かを創りだす遊び。粘土遊び、砂場遊び、積み木遊びなど。

日本では幼稚園ぐらいの時期に該当するでしょうか。
ただ、この分類では他者と関わる、コミュニケーションが必要とされる遊びは含まれていません。
Piaget(1945)では、感覚運動遊び(Bühlerの1に相当)、象徴遊び(Bühlerの2に相当)、そして、規則遊びの3つに分類されている。
規則遊びとは、ルールの存在する遊びで他者の存在が必要な社会的な遊びになります。例えば、かくれんぼや鬼ごっこなどが該当します。
これによって社会性や協調性、集団規範や競争意識などが芽生えてくるのですが、「ルーム」のように監禁された状態では実践するのは困難になります。ジャックが当初は人とうまく話せないというのも、置かれていた状況では仕方がないことなのです。

子どもの遊び、と思ってしまいがちですが、子どもの成長には欠かせないものですね。
子どもにとって刺激となる好奇心をくすぐるようなおもちゃを用意すること、他の子どもと関わっていけるような環境を築くことが重要な事なのですね。

[引用文献]
Bühler, K.(1931). Die geistige Entwicklung des Kindes, G.Fischer.

Parten, M. (1933). Social play among preschool children. Journal of Abnormal and Social Psychology, 28, 136-147.

Piaget, J.(1945). La Formation Du Symbole Chez L'enfant. Delachaux & Niestle, Neuchatel et Paris.(大伴茂訳 遊びの心理学. 黎明書房).
スポンサーサイト

「ルーム」感想。


(公式HPより引用)

[story]
ママ(ブリー・ラーソン)とジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)は小さい部屋で二人で暮らしていた。外の景色は天窓から見える空だけで、ママからは外の世界は何もない、テレビの中は全部にせものだと教えられていた。ある時、ママは意を決してジャックに真実を伝える。自分たちはジャックが生まれる前からずっとある男に監禁されていて、部屋の外には本物の世界があることを。そしてこの部屋から脱出するために行動を開始するのだが・・・。

「FRANK -フランク-」のレニー・アブラハムソン監督が、7年もの間監禁された女性とその間に生まれた5歳の息子の運命を描く。

ママ役に扮したブリー・ラーソンが昨年度のアカデミー賞の主演女優賞をはじめ多くの賞を受賞した作品です。

冒頭、ジャックが部屋の中にある様々なもの、ランプや卵ヘビ、流し台などに「おはよう」の挨拶をするところから始まります。
天窓から空は見ることができるものの、外には何もないと教えられ、テレビの世界も偽物だと思っているジャックにとって、唯一のリアルが部屋の中にある様々なもの、そしてママの存在だけということが伝わってきます。

これは原作も同様みたいですが、終始ジャックの主観的な目線で語られています。
そしてこの冒頭のシーンは予告編にもあるのですが、5歳の少年の目線ということで、ある種のファンタジーのように描かれているのも特徴的です。

ジャックの5歳の誕生日。
ママは意を決してジャックに真実を伝えます。
自分たちはオールド・ニックによって納屋にずっと監禁されていること。
扉の外には本物の世界があるということ。
そして、ママはジャックにこの部屋から脱出する考えを告げます。
このときのジャックの拒絶ぶりがすごくて、「チャンスは今しかないんだよ!」と辟易してしまうのですが、これまで信じてきたものが揺らいだ直後なわけで、まして5歳の少年が知った真実としては重たすぎますよね、と今にして思います。

ママの脱出作戦では、オールド・ニックに「ジャックが死んだ」ということを告げれば、ジャックをどこかに埋めてしまおうと、外に連れ出すはず。外に出たらスキを見て車から飛び降りて、見かけた大人に助けを求めるというもの。

かくして部屋のじゅうたんでスマキ状態になったジャックをオールド・ニックはトラックに乗せていきます。
車が動き出して、ジャックはじゅうたんから顔を出します。
このシーンはジャックがまさに初めて外の世界に触れる瞬間で、とても感動的なものになっています。
ジャック自身も思わずママに言われた作戦を忘れてしまいそうになります。
我に返ったジャックはなんとか車から降りるも、オールド・ニックに気づかれてしまいます。
果たしてジャックは無事に逃げることができるのか?
ママは部屋から脱出できるのか?

・・・というお話だと、映画を見るまでは思っていました。
もちろん決死の脱出劇でもあるのですが、これ、映画のだいたい前半部分です。
脱出成功!めでたしめでたしという話ではないのです。


↓↓↓ネタバレ注意!↓↓↓


ジャックは犬を散歩していた男の人とぶつかります。助けを求めたいところですが、段取りを忘れてしまった、というよりはそもそも他の人と全く話をしたことがないので、うまく助けを求められません。
オールド・ニックは、子どもが癇癪を起こして車から飛び降りてしまった体を装いますが、それを不振に思われ、結局、ジャックを放って車を発車させます。

警察を呼んでもらっても、ジャックはうまく説明できません。
警察の人も最初はただの迷子か何かと思い込みます。あまつさえ、ジャックは生まれてずっと髪を切ったことがなかったので、女の子みたいな長髪で、カルトな親だとすら疑われてしまいます。
しかし、婦警さんが直感的にタダ事ではないと感じ、ジャックから断片的な情報を聞き出して、これまで移動してきた距離の推測、そして納屋のある家を一斉捜索させることに成功します。
このシーンの婦警さん、マジでカッコいいです。

パトカーの中にいたジャック、「ここから出して!」と必死で叫びます。
見ている側としては「そんなことしたらまたオールド・ニックに捕まっちゃうよ!」とハラハラします。
やがて納屋から救出されたママと無事に再会します。

病院で検査を受けるジャックとママ。
特にジャックは外の世界に慣れていないので、サングラスとマスクの着用を指示されます。
これも、外の世界に出て自由になったはずのジャックが不自由そうにしているという印象を与えています。

退院した2人は祖母の家へ。
祖母は離婚しており、今はレオというパートナーがいます。
この2人の離婚の経緯については描かれていないが、ママも知っていたところを見ると、7年以上前の出来事のようですね。
マスコミや野次馬が押し寄せる中、なんとか祖母の家へ。
祖父は弁護士と今後のことについての相談をしてくれます。

話には聞いていたけど実際に話すのが初めての祖父母やレオに対し、ジャックはついママの後ろに隠れてしまいます。
挨拶やお礼もうまく言えない、話す時も小声で、ママはそんなジャックの姿に不安をいだきます。
そして、せっかく脱出したのに「あの部屋に戻らないの?」とすら言ってきます。

そんな折、ママは祖父がジャックを見ようとしないことに気がつきます。
娘に怒鳴られても、どうしてもジャックの方を見れない祖父は力なく「すまない。」とつぶやくのです。
このあたりの事情は詳しく描かれませんが、おそらく祖父は弁護士と打ち合わせをしている過程で、犯人の写真を見たとか何らかの接触があったのではないでしょうか?
愛する娘の子どもでもあるけれど、忌々しい犯人の血を引いている、その複雑な思いがジャックを直視できなくさせてしまったのではないでしょうか。

ジャックは次第に心を開いていくようになります。
レオと一緒にごはんを食べたり、祖母と会話したりするようになっていきます。
それとは対照的に、ママはふさぎ込みがちになります。
高校時代のアルバムを見返して、リレーの選手でアンカーだったというかつての栄光とともに、一緒にリレーを走ったメンバーは自分とは違ってその後も幸せに暮らしているのだろうという現実を思い起こします。

ジャックの適応に対して、ママが不適応に陥っていくことを示す象徴的なシーンがあります。
ジャックがママのそばでスマートフォンでアニメを見ていると、「携帯をいじるのをやめなさい!子どもならレゴで遊びなさい!」とジャックを叱ってしまいます。
ジャックをかばおうとする祖母にも「わたしがいなくなっても自分は幸せに生きてたんでしょう?」と叱責します。

7年もの間監禁されていたママはおそらくスマートフォンに触れる機会はなかったのでしょう。めまぐるしく変わってしまった世界に置いて行かれた隔世の感にとらわれているのに対し、ジャックが新しい環境に適応し、新しいものをどんどん吸収していく姿に自分だけが取り残されてしまっているという恐怖を抱いたのかもしれません。

ジャックが脱出に成功し、警察の捜査の甲斐もあってママも無事に救出されますが、一時的にせよママは一人で「部屋」に取り残されていました。
ジャックが脱出に失敗していたら?オールド・ニックに作戦がバレてしまったら?そんな思いを抱きながら1人部屋で待っていたママの恐怖や不安は計り知れないものがありますが、皮肉にも、現在のママが置かれている状況はこのときと同様のものになってしまっていたのでしょう。

ママはテレビの取材を受けることとなります。
この時、インタービュアーからはなんとも手厳しい質問を受けることになります。
1つは、ジャックの父親について。
ママはジャックには父親のことを伝えていないし、おそらくこれから先も伝える気はないのでしょう。
インタビュアーに対し「父親とは子どものことを大切にする人です。だから父親はいません。親はわたし一人だけ。」と言い張りますが、「それでも生物学的には父親が・・・」となんとも意地悪な、それでいて正論を言ったのです。
そして、2つ目の質問。「ジャックを自由にしてくれ。誰かに預けるとかジャックを外にだすための相談を犯人にしなかったのですか?」。
この質問が投げかけられるまでは、ママは「ジャックにとって自分が何より必要なはずだから、そんなことはできない。」と考えていたのでしょう。
しかし、「むしろ自分がジャックを必要としていたから、ジャックだけを外の世界に送り出す」ということを考えなかったのではないか?と自問自答することになります。それは、自分がジャックの貴重な5年間を奪ったことでもあり、オールドニックが自分たちにしたことと変わりないのではないかと。

このことで自責の念にかられたママは自殺を図ります。
ジャックがすぐに気がついたこともあり未遂に終わりましたが、ママは病院へ、ジャックは祖母の家で待つことになります。
この間のジャックは、レオや祖母と一緒に犬の散歩をしたり、祖母と一緒にケーキを作ったり、そのことを隣人に話したり、そして、友だちができて一緒に遊んだりします。

帰ってこないママを案じて、ジャックは自分の髪を切って、ママに届けて欲しいと言うのです。
ジャックの髪にはパワーが宿っているとママからずっと言われていました。
今度はそのパワーをママに届けたいという気持ちがそうさせたのです。

ラスト、退院したママとジャックは、あの「部屋」を再び訪れることにします。
部屋を見たジャックは「部屋が縮んだんじゃない?」と言います。
もちろんジャックが広い世界に触れ、そこで過ごしたからこそそのように感じるのでしょう。
ジャックは部屋に残されていたものに「さよなら」の挨拶をして、部屋を出ていきます。今度はママと一緒に。
ジャックにとってはそこが全てであり愛着もあった部屋、そしてママにとっては恐怖の象徴であり忌まわしい過去でもある部屋に別れを告げた瞬間こそが、真の意味で部屋を脱出したことになるのでしょう。

ジャックとママの新しいスタートが希望に溢れていることを願ってやみません。

「モヒカン故郷に帰る」から考える悲しい記憶と忘却について

背伸び


「モヒカン故郷に帰る」では、父親の死という来てほしくはないけれど必ず訪れる家族の悲しい出来事についてがテーマとなっていました。

Holmes & Rahe(1967)では、ライフイベントにおけるストレスの強さをHolmes and Rahe stress scaleという指標で示しています。これによると、最も強いストレスとなるのが、「配偶者の死」です。このscaleではこれを100とした場合の様々なライフイベントにおけるストレスの強さを数値化しています。
他には、「近親者の死」は63、「親友の死」は37となっています。
もちろん50年近く前の指標ですので、すべての人がこのような捉え方をしているか、ストレスと感じているかに差異はあるかもしれませんが、いずれにせよ、親しい者との死別というのは大きな悲しみとなり、ストレスとなることに変わりはありません。

折しも、4月15日、17日と熊本で大地震が発生し、40余名もの死者を出し、依然として行方不明者も多い状況です。
映画のように病気による死別ですら悲しい記憶として大きなストレスを生むものであるのに、災害による死別は全く予期すらできないことなので、その心理的影響は計り知れないものになるでしょう。

こうした悲しい出来事を乗り越えるにはどうしたら良いのでしょうか?

悲しい・つらい記憶は楽しい記憶よりも記憶に残りやすい?


一般的には悲しい記憶、つらい記憶の方が記憶に残っていると思われているのではないでしょうか?
短期的に見れば悲しい記憶、つらい記憶というのは記憶に残りやすいようです。
また、楽しい記憶は、その楽しかったという感覚としては記憶しているものの、その詳細を思い出せないということが多いのに対し、悲しい記憶、つらい記憶は、詳細にわたって記憶している場合が多いです。

この理由として考えられているのが、防衛機制、防衛本能からくるというものです。
これは、悲しい出来事、つらい出来事というのは当事者にとってなんらかの被害をもたらす影響があると考えられるため、もし今後似たような状況に置かれた場合、同じような体験を繰り返さないようにするため、その出来事の記憶が印象深くなるというものです。
実際に何らかの対象についてポジティブな情報とネガティブな情報が得られた時、ネガティブな情報の方を優先してしまうという傾向が見られており、これはネガティビティ・バイアスと呼ばれています。

さらに、今回の震災のように非常にショッキングな情動体験を伴う悲しい出来事やつらい出来事は、より深く記憶に刻まれることになります。
Brown & Kulik(1977)は、ケネディ大統領暗殺事件の映像を見た人が、13年後の調査でも、その映像だけでなく、その時自分が何をしていたかなどを詳細に記憶していたことを明らかにしました。このことは、フラッシュバルブ記憶と呼ばれ、その後多くの研究がなされています。

フラッシュバルブ記憶はその名の通り、まさに視覚的イメージが写真に焼き付くかのように鮮明に残ることで知られています。
さらに、このようなショッキングな災害や事件は、その後も繰り返し報道されることになります。それによりそのイメージは強化されていくことになります。
911のテロや311の東日本大震災による津波などはまさにこれに該当します。
これが長期間にわたって反芻され、そのたびに当時のつらかった記憶や感情が思い起こされてしまうのが、心的外傷後ストレス障害(PTSD, Post Traumatic Stress Disorder)です。

悲しい記憶は忘れた方が良い?


このように悲しい記憶は忘れてしまいたい、と思う人もいるかもしれませんが、意識的に能動的に忘れようとすることはかえって逆効果となる場合があります。
Wegnerら(1987)の研究を紹介します。彼らの実験では、最初に実験参加者には白クマの映像を見せます。その後実験参加者を3つのグループに分け、Aグループは、「白クマのことをしっかり覚えておいてください」とお願いします(強調条件)。Bグループには、「特に白クマのことを考える必要はありません」と指示します(非強調条件)。そしてCグループには、「白クマのことだけは絶対に考えないでください」とお願いします(禁止条件)。結果、最も白クマのことを思い出したのは、Cグループ、つまり「絶対に考えないでください」と言われていたグループでした。
Wegnerらは、人の思考においては実行過程と監視過程が存在していて、監視過程に「白クマのことを考えていないか」チェックさせるためには、実行過程に「白クマ」をインプットしておく必要があり、それが結果として記憶を助長しているのだと結論づけています。
このことは、皮肉過程理論という理論で説明されています。
つまり、忘れようとするとかえって意識してしまって、結果的に記憶に残りやすく、思い出されやすいということになります。

悲しい感情を吐き出す!

どうせ忘れようとしても忘れられないのなら、想いのままに感情をぶつけるのはどうでしょうか?
これは非常に効果的だと言われています。
特に、災害などの場合には、自分たちも生きていかなければならないし、他にも同じように被害にあった方もいるしで、大切な人を失った悲しみを感じている時間も心の余裕もないという状況が考えられます。
そのせいで、感情を抑えこんだまま時間が経過してしまうと、悲しい出来事、つらい出来事が未完了の状態として処理されてしまいます。
未完了のもの、区切りの悪い状態というのは気持ちの良いものではないですよね?そのせいで気がかりとなっていつまでも心のなかに残ってしまいます。
だからこそ、悲しさ、つらさ、怖さ、怒り、など当時は我慢して言えなかったことを全て吐き出すことよって、その出来事に対する自分の心を完了の状態に持っていくことができるのです。
大声で叫んでもいいし、それができなくても、誰か親身になって聞いてくれる人に話すのでもいいし、それもできなくても、日記に書いたりするのでも構いません。それによって心の整理がつけられることになります。

気分転換に音楽を聴く!

何もしていない状態だとどうしても考え事をしてしまい、そのうち悲しい出来事やつらい出来事を思い出してしまうことにもつながるので、別のことをする、というのも効果的です。
例えば音楽を聴くなんていうのもその1つになるのですが、どのような音楽が良いのでしょうか?
Bower(1981)はいくつかの研究で、感情状態が記憶や行動に影響を及ぼすことを発見し、これを気分一致効果と呼んでいます。
それでは明るい音楽を聴けばいいんだ!
と、お思いかもしれませんが、こんな結果もあります。
Taruffi & Koelesh(2014)は、悲しい曲を聴取することによって、郷愁性、穏やかさ、優しさといった感情がもたらせれることで、感情の浮き沈みを抑えることができ、結果として悲しさが中和されるということを示しました。
どっちやねん!とお思いかもしれませんが、どちらの効果が生じるかは個人差、とりわけその人の性格や内的特性によって異なるようで、明確なメカニズムまでは解明されていないようです。

気分転換に別のことをする!

状況によっては音楽なんか聴いている場合じゃない、聴きたくともその手段がない、なども考えられますよね。

Casasanto & Dijkstra(2010)は、記憶と身体の動作との関連性を調査した。その結果、人は自分の利き腕の方向をポジティブな方向ととらえ、そちらに向かった動きをすることがポジティブな感情や記憶と結びつけているということが示された。つまり右利きの人は右向きの動作、左利きの人は左利きの動作がポジティブに認識されるということになります。
その後の彼らの実験では、おはじきを移動するという単純作業をしながら自分の記憶を想起するということをお願いされます。
すると、おはじきを机の上の方に移動すると、先ほどの利き腕方向と同様にポジティブな感情に支配され、その動作をしている間は楽しい記憶が想起されたのに対し、下向きに移動すると、ネガティブな感情に支配され、思い出せれた記憶も悲しい、つらいものが多かったそうです。
無意識的な単純操作や運動でもその方向性が感情状態に影響を与えているということです。
今、熊本で震災に遭われた方の中で車中泊が続いているせいでエコノミークラス症候群になり、中には亡くなってしまった人もいます。
体調も気分も整えるために、思いっきり伸びをしてみると効果的かもしれません。

ポジティブな思い出に置き換える!

親しい人の死は悲しい出来事なので、どうしてもネガティブな感情との結びつきが強くなってしまいますが、そこからでもプラスに捉えられるもの、将来に活かせるものがあるはずです。
「モヒカン故郷に帰る」でも、父親の死は悲しいことだけど、それがきっかけで家族の絆を再確認できたり、永吉と由佳の子という新しい命へと受け継がれていくことを認識できたりしています。決してネガティブなことだけではなかったのです(だいぶ斜め上の方向に行っていますが)。

だいぶ長くなりましたが、最後に、このたび熊本、大分における震災で亡くなられた方にご冥福をお祈りします。また、被災された皆さまが1日でも早く日常的な生活を取り戻すことができるようお祈り申し上げます。


[引用]
Bower, G. H.(1981). Mood and memory. American Psychologist, 36, 129-148.

Brown, R. & Kurik, J.(1977). Flashbulb memories. Cognition, 5, 73-99.

Holmes, T. & Rahe, R.(1967). The Social Readjustment Rating Scale. Journal of Psychosomatic Research, 11(2), 213-218.

Taruffi, L. & Koelesh, S.(2014). The Paradox of Music-Evoked Sadness: An Online Survey.

Wegner, D., Schneider, D., Carter, S., & White, T. (1987). Paradoxical effects of thought suppression. Journal of Personality and Social Psychology, 53 (1), 5-13.

「モヒカン故郷に帰る」感想。


(公式HPより引用)

[story]
モヒカン頭のバンドマン、永吉(松田龍平)。彼は恋人の由佳(前田敦子)が妊娠したのを機に、7年ぶりに故郷・戸鼻島へ帰る。矢沢永吉ファンの父親・治(柄本明)、元祖カープ女子の母・春子(もたいまさこ)、そしてたまたま帰省していた弟・浩二(千葉雄大)のいる実家ですったもんだありながらも祝いの席が開かれる。その夜、治が倒れ病院に運ばれる。診断の結果、末期ガンということが発覚するのだが・・・。

「南極料理人」「キツツキと雨」「横道世之介」そして、「滝を見にいく」と話題作を連発している沖田修一監督の最新作は、父親の死、という家族ならば避けて通れない重いテーマなのですが、フタを開けてみれば、これまでの作品のゆるーい空気感をそのままに描く笑いあり、ちょっとホロリなホームドラマとなっていました。

沖田監督のこれまでの作品でも、意図的に大爆笑させようというわけじゃなくて、何気ない会話のやりとりやちょっとした設定でクスッとさせる絶妙なテイストがありました。

例えば、「キツツキと雨」では、役所広司扮する木こりが若手映画監督の小栗旬に対して、「呼ぶ?」の一言を発するだけで場内にはじわじわ笑いが広がっていました。
「滝を見にいく」でも、道に迷ってしまったオバサマご一行が連絡手段として笛をつかうのですが、それが1つしかなくてもう1つの連絡手段として用いたのが・・・。
まあ詳しいことはそれぞれ映画を見ていただければわかります。

本作でもそんなシーンがいくつも見られます。

父親・治が病院に運ばれた後、末期ガンであることを知らされた家族は治の顔をなかなか直視できません。
ちなみに、治の病室の隣のベッドには、何かの病気で話すことができないのでしょう、自分の反応(YESかNOか)をベルで鳴らして知らせる患者さんがいます。といっても看護師さんとのやり取りが聞こえてくるだけで、画面には一切移りません。

弟の浩二はこらえきれずに泣き出してしまいますが、治にさとられないようにと母・春子は水を買いに行かせます。
しかし春子も涙をこらえきれなくなってきてしまい、とっさに「広島の菊池がねえ・・・」とチームのキーマンの不振を嘆いて泣いていると見せかけます。
治からは、「お前は菊池のなんなんだ!」とツッコミを受けます。
とうとう耐えられなくなった春子は、「わたしちょっと水買ってくる」と出て行ってしまいますが、もちろんすでに浩二が買いに行っているので、
「どれだけ水を買うんだ!」と治のツッコミが入ります。
この後が予告編でも流れていたシーンで、病室に残された永吉と由佳に、治は「(自分は)ガンなのか?」と聞いたら、うなずく永吉と首をふる由佳。「どっちなんだ!」というツッコミが入ります。
このあとにさらにもう一段持ってくるのが沖田監督の上手さ。
これはもうぜひ映画館で見てもらいたい!

病気の、それも末期ガンの告知という極めてシリアスで深刻なシーンでこういうことやっちゃうのがとにかくすごいですね。

浩二がタブレットPCでガンの有名なお医者さんを見つけた時も、そのタブレットを受け取った永吉がやった行動も、まあ不謹慎だけど笑ってしまうというもの。

永吉と由佳に東京に帰るよう言い続ける治だったが、永吉はなんとか父親のためにできることがないかを、なんとなく考えるようになります。
このあたりには長男でありながらろくに家にも帰らず親不孝してしまったことと、やはり父親を失ってしまうことへの悲しみも入り混じっていたのではないかと思います。

「俺も最近知ったんだけどさ。やっぱ親って死ぬんだな。」
この永吉のセリフはおそらく特に3~40代の人なら意識したくないことだけど、なんとなく心の片隅に存在している思いなのではないでしょうか。

治が望んでいそうなことをなんとなく実現しようとする永吉。
このあたりは、「死ぬまでにしたい10のこと」や「最高の人生の見つけ方」の雰囲気ですね。だいぶゆるいけど。

治が本土で食べたピザをもう一回食べたい、と言うので、そのピザを頼もうとするも、「ウインナーが入っていた」ことしか覚えていなかったため、とりあえず3つのピザ屋さんにウインナーが入っているピザを全部注文します。
しかし、ここは離島なので、ピザ屋が宅配に難色を示します。
この時の永吉の頼み方がゴリ押し過ぎて、これまた笑っていいのかわからないけど笑っちゃいます。
かくして、3店のピザ屋が宅配することになるのですが、離島に行く船がかち合います。
3店のピザ屋の宅配のお兄さんが、なんとなく気まずい船内になっていてクスッとしていたら、その後、島に降り立ってから宅配ピザを届けるまでのムダなラリー、そして届けた後のやりとり、とにかくもう素敵です!

さらに永吉は治の指導していた島の中学校の吹奏楽部の指揮を代行します。その音声を携帯電話で治に聞こえるようにしているのですが、このシーンもまた!

そして、永吉は治の最大の願いを聞こうとします。
このシーンでは、同じ部屋にいた春子が「わたしなら、広島カープを1年間自由に指揮したいねえ。」と言えば、春子の診断をしていた看護師さんは、「わたしは~、恋かな?」とさらに続けるというシークエンスがこれまた笑いを誘います。

一方で、治は、永吉と由佳をしきりに東京に帰そうとします。
その真意は・・・。

このまま感動的な雰囲気で終わるのか、と思わせますが、そこは沖田監督の作品。そんな一筋縄ではいきません。
容態の悪くなってきた父親に永吉と由佳の結婚式を見せようと、みんなで病院での結婚式を企画します。

親戚「結婚式日和になりそうねー!」→豪雨。
治を病院に搬入する時に雑すぎて、治びしょびしょ。
病院での式になるので、照明が手術用のスポットライトとかをそのまま利用。
離島なので天候不良で牧師さん来られず。
こんなドタバタの中、結婚式がスタートします。
このシーンで思い出したのが、「龍三と七人の子分たち」でしたね~。

これらのシーンを彩るキャラクターもまた個性豊かです。

永吉は、売れないデスメタルバンド"断末魔"のボーカル。
予告でも流れるあのデスボイスでの「だんまつま~!!!」がどこで流れるのかお楽しみに。
こんなバンドのボーカルですが、本人は極めて優柔不断です。
バンドメンバーが将来とか年金とかに不安を感じてバンドの解散も匂わせているのに、「まあ、みんなの言うとおりだと思うよ。」と特に自分の主張もしません。これは家族で治の治療方針を話す時も優柔不断です。
そんな永吉が、治に何かしてやれないか、という気持ちにシフトしていくのはとても爽快感があります。
優柔不断なのに、モヒカンに対するポリシーは捨てないのもまた面白いですね。
松田龍平は、非常に役柄にマッチしていて、何考えている変わらないようでいて、何も考えないようでいるというキャラにマッチしていたと思います。

父・治は自分の息子に永吉とつけるぐらいの矢沢永吉の大ファン。
自分が指導している吹奏楽部では中学生なのに無理やり矢沢の曲を演奏させ、挙句、「中学生にはしぶすぎると思いまーす」と言われてしまいます。
「YAZAWAは広島県民の、義務教育ですから。OK?」とか、もう字面だけでも面白い。
頑固で飲んだくれで独りよがりだけど、家族思いというキャラを柄本明が演じているのですが、なんとも面白い親子になっています。

母・春子は、長男の嫁になる由佳に何かと気を遣います。
この2人のシーンは結構あるのですが、どれも微笑ましいシーンばかりでした。
春子が料理を教えてあげる(とりあえずめんつゆ最強ってことしか教えてなかった気もするが)シーンや、由佳が春子にマニキュアを塗ってあげるシーンなどなど。
それでいて、熱狂的なカープファンでもあり特に菊池を気にかけているのですが、映画で出てくるシーンでは軒並みチャンスで打てないという場面ばかり。でも最後の最後に・・・。
これ菊池は永吉のメタファーのように描いているんでしょうかね?
もたいまさこは「かもめ食堂」の時もそうでしたが、もういるだけでずるい、という素晴らしい女優さんです。

永吉の子どもを妊娠し、永吉と一緒に故郷にやってくる彼女・由佳はいかにも頭の弱い女の子っていうキャラ。
お酒が飲めないと、「妊婦つれーわー」と嘆いてみたり、春子に相手が永吉で本当にいいの?と聞かれると、「なんかー、永ちゃんぐらいがちょうどいいっていうかー?」みたいな回答をしています。
それでも、治のことで料理が手に付かない春子の代わりになんとか動画見ながら魚さばこうとしたり(内臓にオエってなってましたが)、春子にマニキュアを塗ってあげたりと、優しいところもたくさんあります。
この役を前田敦子がやっているのですが、AKB卒業後の前田敦子のフィルモグラフィーはなかなか良いものだと思います。
「苦役列車」「もらとりあむタマ子」では山下敦弘監督に抜擢され、「イニシエーション・ラブ」では松田翔太と共演し、さらに本作では沖田修一監督に加え、松田龍平と共演というわけですから。
決して目立った大作があるわけじゃないけど、映画自体の評価が高いものも多く、単に元AKBの看板で決まった役どころではないのではないでしょうか。
自分も特にファンではないのですが、今後の活躍にも期待したいところですね。

そして、浩二役の千葉雄大。
気弱でこれだけ濃いキャラの家族の中でその存在はどうなのかと思ったら、なんとなく頼りなさげながらもインパクトのあるキャラクターでした。
「黒崎くんの言いなりになんてならない」見た時はこっ恥ずかしいほどのイケメンキャラだったので、その落差に驚きです。

じわじわ笑えるシーンの連続ながら気がついたらちょっと泣けてしまうような構成で、それを支えるキャラクターがちょっと間抜けでとぼけているけど、とても魅力的、そんな沖田修一監督の「ほっこり」感をぜひ味わって欲しいと思います!

「のぞきめ」から考えるスポットライト効果、透明性の錯覚、観察者バイアス



「のぞきめ」のキーワードとして、「誰かから見られている」意識、が根底にあります。
映画自体はあれでしたが、この、誰かから見られているかもしれない、という間隔は誰しもが一度は抱いたことがあるのではないでしょうか?

この感覚を逆手に取って利用しているのが、東京都内を中心に各所に貼られている犯罪抑止ステッカーです。
犯罪行為のように後ろめたい行動をしている時に、こうした目のステッカーが貼られていると、普段よりも、より「誰かに見られいてる」感が高まり、結果として犯罪の抑止につながるというわけです。
実際の効果の程はわかりませんが、他人の目を気にするという心理をうまく利用したものだと思います。

ところで、実際には人はどれぐらい周りの人から見られているものなのでしょうか?
これを調べるために行われた面白い実験があります。

Gilovich, Savitsky, & Medvec(2000)は、実験参加者に、実験のためにあるTシャツを着るようにお願いします。このTシャツは、バリー・マニロウという往年の歌手の顔がプリントされたもの、要するに、超ダサいTシャツを着せられるというものでした。
しぶしぶTシャツを着用して、同じく実験を受ける他の人たち60人ほどと一緒に教室に入るのですが、なんと!他の人は普通の格好で、自分だけがものすごいダサいTシャツを着ているという状況になります。

この不運にもTシャツを着せられてしまった実験参加者は、早く実験が終わってくれないか気が気でなくなります。
周りの人がこちらを見るたびに自分のダサいTシャツを笑われているのではないかと気になります。

しばらくして実験者がやってきて、手違いで今日は実験ができなくなりましたと、お詫びの言葉とともに解散が言い渡されます。
しかし、実はここからがこの実験のメインでした。

まず、このTシャツ着せられた実験参加者に、自分がこのダサいTシャツを着ていることを周りの人はどれぐらい気づいたかを予想させます。
すると、およそ50%ぐらい、教室にいた半分ぐらいの人が気がついていた(そしておそらく笑っていた)と回答します。
次に、このダサいTシャツを着た人と同じ教室で実験開始を待っていた他の人たち(観察者)に、ダサいTシャツを着た人に気がついたかどうかを質問しました。すると、気がついたのは、全体の23%、約2割程度の人しか気づかなかったという結果になりました。

つまり、自分が思っているほど、他の人には見られていないということになります。たとえ着ている服がダサくとも、ミートソースのシミを白い服に付けてしまったとしても、寝癖が治らなかったとしても、過度に気にする必要はないということになります。
このように、実際よりも過剰に誰かに見られていると感じる意識のことを、スポットライト効果と呼んでいます。

この誰かに見られているという意識は、外面的なことだけではなく内面的なことにも言えます。
Gilovich, Savitsky, & Medvec(1998)では、実験参加者に、周りの人にある「嘘」をつくように言われます。
その後で、周囲の人に自分のついた嘘がどれぐらい見透かされているか、周りにバレているかを予測させます。
そうすると、やはり先の実験のように、嘘がより多くの人にバレていると過大に見積もる傾向が見られました。
この結果は、嘘をつく場合だけでなく、自分の感情や気持ちを表出しないようにする場面でも同様のものとなりました。
これは、透明性の錯覚と呼ばれ、外面だけでなく内面的なことにおいても、自分の考えや気持ちは過剰に周りにバレていると認識してしまいます。

結局のところ、外面的にしろ内面的にしろ、自分が思っているほど、誰かに見られているわけではありませんよ、というのが事実です。
そうは言ってもやはり気になる!
そんな人には、いくら先述したスポットライト効果や透明性の錯覚の話をしたところでキリがありません。
それならば、むしろ「見られている」という意識を逆手に取ってしまいましょう。

Mayo(1933)は、第二次産業革命以降、生産性のみを重視する科学的管理法に対して、労働者の不満が増大していることを背景に、労働環境についての大規模な実験を行いました。その工場の名前を取って、ホーソン実験などと呼ばれています。
この実験の一環で、休憩の時間、給与体系、休憩時の食事など、様々な条件を変更することで、労働意欲と生産性にどのような影響があるかを調べる、リレー(継電器)組立実験が行われました。

この実験で結果的に労働意欲、生産性とも非常に高い結果が得られたのですが、先ほどのどの条件によって結果が向上したのかが判明しませんでした。
その原因として考えられたのが、実験の環境でした。
この実験は会社をあげての大規模実験だったため、実験者であるMayoはもちろん、他の会社の重役たちも実験状況を把握できるように、ガラス張りの作業室で作業を行っていました。
仕事中(つまりは実験中)は常に誰かの目にさらされており、中には会社の重役も含まれていたため、実験参加者は作業をサボることができないばかりか、重役の前で一生懸命働いていることを見せようとアピールしてしまったため、実際よりも労働意欲や生産性が高まってしまいました。
これは観察者バイアスと呼ばれ、見られている意識があるからこそ通常よりも頑張ってしまった結果と言えます。

前回の話題にあった公的自己意識と同様、神経質なまでに他人に見られているという意識はストレスになってしまうかもしれませんが、適度に誰かの目にとまるかもしれない、と意識しておくことで、身だしなみには気をつけようとか、服装や化粧をしっかりしようとか、あるいは日常的な振る舞いや行いを気をつけようという形に結びつけることができます。
ぜひとも、誰かに見られているという意識は有効に働かせていきたいですね。

[引用]
Gilovich, T. Savitsky, K. & Medvec, V. H.(1998). The illusion of transparency: Biased assessments of others' ability to read our emotional states. Journal of Personality and Social Psychology, 75(2), 332-346.

Gilovich, T. Savitsky, K. & Medvec, V. H.(2000). The Spotlight Effect in Social Judgment: An Egocentric Bias in estimates of the Salience of One's Own Actions and Appearance. Journal of Personality and Social Psychology, 78(2), 211-222.

Mayo, G. E.(1933). The Human Problems of an Industrial Civilization , Routledge & Kegan Paul , Macmillan.

「のぞきめ」感想。

のぞきめ
(公式HPより引用)

[story] ある青年が自宅アパートで死亡する。その事件を取材することになったADの彩乃(板野友美)は、その青年の恋人から、彼の死は「のぞきめ」の呪いであると言われるのだが・・・。

三津田信三の同名小説を、元AKB48の板野友美を主演に迎え映画化したジャパニーズ・ホラー。監督は「トリハダ」シリーズの三木康一郎。脚本は「アヒルと鴨のコインロッカー」「ゴールデン・スランバー」などの伊坂幸太郎作品や「仄暗い水の底から」「残穢(ざんえ) -住んではいけない部屋- 」のホラー作品で知られる鈴木謙一。

「サウルの息子」「リップヴァンウィンクルの花嫁」と、ミニシアター系の映画を連続して書きましたが、ブロックバスター系のハリウッド大作も見ますし、こういった邦画も見ます。要するになんでも見ます。
とりわけ、ジャパニーズ・ホラーは結構好きで見ていますが、怖いというよりはツッコミどころ満載という作品が多くなってきている気がします。
本作もそれにおもいっきり該当していますので、ツッコミとともにネタバレ全開で書いていきたいと思います。


↓↓↓ネタバレ注意!↓↓↓


冒頭、何かに怯えた青年がホームセンターでガムテープを大量に購入する。そして部屋中の隙間という隙間を目張りし震えながらも眠りにつく。
夜中に目が覚めると、書類ケースかなんかの隙間(というか取っ手の空いているスペース)が目張りされておらず、そこには血走った2つの目が!
恐怖のあまりベッドの下に隠れた青年だったが、ベッドの上から謎の手が。

シーンは変わり、テレビ局。グルメ番組の編集をしていた三嶋彩乃(板野友美、以下ともちん)は上司にダメ出しをされる。
元AKBのオシャレ番長のともちん、オシャレはもちろんネイルの手入れもバッチリで、とてもADには見えませんが、ADです。
残業になったため、迎えに来ていた彼氏の津田信二(白石隼也)は彼女に会うことを断念します。その手には婚約指輪が(伏線1)。
ちなみに信二は小説家志望(伏線2)で、ADと結婚とか生活が困窮しそうなのが目に見えますね・・・。

ともちん、残業して映像の編集をしているところに電話がかかってくる。
青年が怪死した事件を取材して欲しいと言われるが、報道部には誰もいないのだが(そんなことあるのか!)、電話主もとにかくカメラ持って現場に行けと指示してくるので(そんなことあるのか!)、ともちんカメラを持って現場へ。
そこでは、アパートの階段で息絶えた青年の死体が。
ともちん、体の小ささを利用して警察の規制線ギリギリの位置をキープし現場を撮影。そしてそのままなぜか現場でリポート!
ありのままを伝えただけだったのだが、それがなぜか報道部に評価される。

報道部から、死体は体がねじれていて(伏線3)、口の中には大量の泥が詰まっていたらしいということを聞く。死因は転落死ではなかったのだ。
なぜかその後の取材もすることになったADともちん、現場のアパートに行くと、この青年の彼女、和世(入来茉里)と会う。
和世について部屋にはいると、部屋中がガムテープで目張りされていることに気づく。
そして、和世から、青年は「のぞきめ」に呪い殺されたことを告げられる。
さらに、和世が青年の部屋で目張りが取れていたシンクの排水口を除くと、そこから大量の泥が逆噴射!泥まみれになった(という幻覚を見た)和世は半狂乱でいなくなってしまう。

ともちん、和世が忘れた上着を届けに和世の実家へ。
和世は部屋に閉じこもって出てこなくなってしまっていた。
和世も自分の部屋を目張りしていたのだが、カーテンの隙間がはらりと開いてしまい、そこには血走った2つの目が!悲鳴を聞いたともちんは和世のお母さんと和世の部屋へ。錯乱した和世はそのまま病院へ行くことになる。
どうでも良いけど、ともちんに和世のお母さんに、「いや、全然」とかタメ口で話しているのに違和感。一応社会人でしょ?
ともちんが和世の大学に聞き込みに行くシーンもあるのだが、同級生にしか見えない。

薬で落ち着いた和世から、青年と一緒にサークルの合宿で謎の村に行ったことを告げられる。群馬か長野あたりにあるその村は今はダムに沈んでいるはずの廃村だった・・・。

ともちんは信二と一緒にこの廃村に向かう。
そばにあるペンションで宿泊するのだが、そこの人がつぶやきシローで独特のなまりが意外にもマッチしていました。つぶやきシローが言うには、問題の廃村の方に向かう峠には地元の者は決して近づかないと。もし行く気ならうちには泊まらないでくれ、と言われる。
そう言われたら行きたくなるので、峠に行くと、廃村のあった場所はダムになっていた。仕方なく引き返そうとしたともちんだったが、信二は「絶対に振り向くんじゃない!」と言います。そう言われると振り向きたくなるので振り向いたともちん、そこにはお遍路みたいな格好をした少女が・・・。

ともちんと信二は、のぞきめの伝説を書いた怪異現象の作家・四十澤(吉田鋼太郎)を訪ねます。
のぞきめとは、かつて六部と呼ばれた巡礼者がいて、各地の霊場をまわっていたのだが、その六部が路銀のために訪れた先で殺されたものが怨念となったものだそうで、ただひたすら、どこかから覗いてくる、というものだった。

ん?あれ?最初の彼、思いっきり泥詰められて窒息させられてたよね?
ただ覗いてるだけじゃないね!

調査の帰り道、和世の母から和世が病院からいなくなったと電話が入る。和世は病院内でまたのぞきめを見てしまい、病院を飛び出したのだ!
病院内のスタッフ的な人たちが一切止めないのも不思議だが、和世はどんどん人気のないところへ逃げていく。
いかにも何かでそうな森に逃げ込んだ和世、しかし落ち葉の隙間から大量の血走った目に見つめられ錯乱する。
たまらず道路に飛び出した和世、そこに信二の運転する車が鉢合わせ、あわや轢きそうになる。
と思ったら次のトラックにあっさり轢かれる!

ショックで仕事が手に付かないともちん、上司に「もう、お前今日は帰れ。」と言われて素直に帰る。
しかもまだ職場にいるのにその場で彼氏に電話をかける。
あんたホントに社会人?

合鍵で信二の家に入るともちん。
すると台所の戸棚に隙間が。
そこを開けると、バラバラになった和世の死体が!
そこは血走った2つの目じゃないんかーい!
パルァララララァ!(ともちんの悲鳴)
謎の変化球に驚いていると、信二が帰ってくる。
落ち着きを取り戻したともちんだったが、信二が大量に買ってきていたのは、ガムテープだった。

目張りする気満々だということに気がついたともちんは信二に部屋を追い出される。
部屋の中から聞こえる信二の断末魔!
ドアを開けてとドンドン叩くともちん!
あれ?合鍵は?きっとパニックで動転していたんだろう。

彼氏を助けたいともちんは、再び四十澤の元へ。
そこで四十澤が若かりし頃、今はダムに沈んだ廃村で「六部殺し」の伝承を調査しに行った時に、この村を牛耳っていた一族が六部殺しの首謀者だったこと、その呪いを沈めるために生け贄代わりの少女を社の奥の洞窟に閉じ込めていたこと、そして、四十澤がこの少女を村の外に連れ出したことを独白します。
四十澤はこの生け贄を逃がしたものの、自分ものぞきめに取り憑かれてしまいます。その恐怖から逃れるために自分の両目を潰したことも告白します。これ「ボイス」でもあったね。

ちなみにこの時、峠にあった道祖神のしめ縄が切れ、石が真っ二つになっています。呪いが解き放たれた!というビジュアルなのですが、四十澤以来、和世と青年、信二と、被害報告は4件ぐらいですね。

結局どうして良いかわからなかったともちん、信二の見舞いに病院へ。
すると、信二が通風口の隙間を覗いたところ、血走った2つの目が!
錯乱して暴れる信二を病院スタッフをなだめようとする。
いや、なだめる前に鎮静剤とか打てよ!
スタッフの静止を聞かず、信二は割り箸で両目を突き刺す!
フィラァララァラァ!(ともちんの悲鳴)
あの状態なのに隔離病棟じゃなかったのか、周りにものありすぎじゃないのか、とか疑問はさておき、信二は失明してしまう。

病院のロビーで悲嘆にくれるともちん。
ロビーの自動販売機のお釣りとるところを見たところ、血走った2つの目が!
「もう、何なのよぅ!」
逆ギレしたともちんに、2つの目は「助けて・・・」とかすれ声を発する。
この言葉を聞いたともちんは再び廃村を尋ねることに。

途中、四十澤の家で廃村に行く旨を伝えると、四十澤は、村の生け贄が持っていた首飾り的なお守りを渡してくれます。
生け贄はかつて四十澤が村でのぞきめに襲われた時に、このお守りで助けてくれたのだった。お守りをかざすとのぞきめの幻影が消えるのだった。って、これもうこの子、ただの生け贄じゃないね!

村に向かおうとするともちんに手を振る四十澤。
なんだか目に見えている風だけど、気にしない。

村に向かう途中の峠、六部のいでたちをした少女に遭遇する。
ともちん、少女に向かって、「わたしがあなたをカメラに撮って存在をしらしめる!それがあなたたちの望みでしょう?」と高らかにカメラをかかげる!

気がついたらともちんはダムに沈む前の廃村にいた。
六部の母子が村の長らしき人に宿代わりとしてお社を提供されているところだった。
夜になると、村の長、謎の装束に蝋燭を頭につける出で立ちで襲い掛かってくる!あんたは八つ墓村か!
六部の母親、少女をなんとか逃がすも自分は斧でめった打ちにされる。
少女、血だらけの母の姿を見て泣き叫ぶ。
母親、息も絶え絶えに(てゆーか、まだ生きてたのか)、娘のほうを振り向こうとすると、体がねじれてしまう!(伏線3回収)
ちなみに原作では、生き埋めにされた娘を助けようと必死で体を動かしたせいでねじれてしまうという設定なのですが、映画ではビジュアル的なインパクトを重視した結果、娘がノーダメージの状態なのに無理やり振り向こうとするということになっています。
だって、地中でやっても目立たないからね!

返す斧で少女も血祭りにあげられる。
そして死体は隠蔽のために地中に埋められてしまいます。
ともちんは、こうして六部の、のぞきめの埋められている場所を知ったので、ちょっと掘ってみたら遺体がみつかったので、そこにお守りを置く。
あれ?カメラで撮るっていうのは?
まあ、これで無事に成仏してめでたしめでたし・・・とはなりません!
地中から少女の手がボコっと出てきて、ともちんの腕を掴んだ!
プルゥウララァアアアー!(ともちんの悲鳴)
ともちんは地中に引きずり込まれてしまいます。

場面は変わって、本屋さんへ。
そこでは、「のぞきめ」というタイトルの本がベストセラーとして並んでいる。
作者は、三津田信三!!!
信二が生きていて、奇跡の盲目作家としてデビューしていたのだ!(伏線2回収)
しかもペンネームが作者自身!
津田信二+三嶋彩乃=三津田信三!!!
むしろこれが一番衝撃でした!

家に戻る信二、いや信三。
原稿執筆の途中で机の引き出しを開けると、そこには彩乃に渡しそびれた婚約指輪が。
するとそこに何か気配が。
現れたのは、ともちんだ!
ともちんはのぞきめになってしまったのか?
「そ~れ~、い~つ~くれるの~?」というのぞきめの呪いとは全く関係ない私怨の催促をして映画終了(伏線1回収)。


いやー、すごい映画でしたね。

というわけで、どうしてこうなった!という問題点をいろいろ挙げてみたいと思います。

1. 彩乃の行動規範がはっきりしない。
彩乃はADで制作部にいるんですが、ひょんなことから、というか報道部がもぬけの殻になっていたので、不可解な事件を取材に行きます。まあ、そのときは非常時だったと解釈できるんですが、なぜその後も(仕事そっちのけで)取材を続けているのかがわかりません。
それならば、彩乃が本来は報道部に行きたかったのに、会社の都合で制作部にいる、みたいなのを強調すればよかったのに映画では描かれておらず、信二との電話で、信二が「やりたかった仕事なんだろ?」って言うだけで、それではテレビ局なら何でも良いという印象になります。

2. のぞきめのスタイルがはっきりしない。
四十澤によれば、のぞきめは「ただじっと見つめてくるだけ」のはずなんですが、最初の青年は泥で窒息死させられてしまいます。
なぜ物理的な攻撃をしてきたのか?
しかも物理的な攻撃はその1回と最後にともちんが地中に引きずり込まれるだけなので、それなら完全に取っ払ってしまったほうが良い。

3. 誰ものぞきめの仕業と疑っていない。
和世がともちんに「彼が死んだのはのぞきめの呪いのせいだ」と言って以来、ともちんと信二はそこについて疑いを持ちません。
むしろのぞきめのせいだと決めつけて行動しているフシがあります。
もちろん、目の当たりにしていない和世の母とか和世や信二の病院にいる人などのその他大勢は信じていないかもしれませんが、主要人物が疑いを持たないので「のぞきめ、本当にいるんだ」というスタンスで映画は続いていきます。
これは、2の問題点ともかぶるのですが、最初の青年を単なる転落死にしておけば、「不可解な死」ではなく、事故か自殺と捉えられるが、ともちんは和世から聞いた話で「のぞきめの呪い」と考える、そしてジャーナリズム魂に火がついて調査に乗り出す、とした方が自然な展開になります。

4. 板野友美はどうなのか?
演技力ももちろん褒められたものではないのですが、自分がいちばん気になったのが、ネタバレの部分にも書いた「悲鳴」なんですよね。
ちょっと面白おかしく書いたフシはありますが、でもそれに近い音に聞こえて、悲鳴というよりは何かの効果音?みたいな印象は拭い去れませんでした。
そして、やはり役どころの問題も大きかったですね。
オシャレでネイルも完璧、というスタイルはどう見てもADには見えません。
AKB関連で言うと、前田敦子の「クロユリ団地」、ぱるること島崎遥香の「劇場霊」も見ましたが、前者は介護士を目指している学生、後者は舞台女優と自身のイメージとキャラクターにそこまでの乖離はなかったのですが、本作はイメージとかけ離れすぎているため、違和感がありまくりでした。


本作のレビューを見ると、板野友美のファン以外で絶賛しているというのはほぼありませんでしたし、どちらかと言うと酷評寄りの評価が中心です。
そういう酷評レビューの時に見かけるのが、「見なければよかった」「時間とお金のムダ」みたいなコメントがあるのですが、自分は全くそうは思いません。

ツッコミどころ満載と割りきって面白く見ることもできますし、こうしたらよかったのにといろいろアイデアを創出することもできますし、何より、これだけ長いレビュー(ネタバレ)を書きたいと思わせてくれるぐらいの勢いはありました(笑)。
なので、もし映画見に行って純粋に面白くなかったと思った時は、発想の転換をしてみることをオススメします!

散々書きすぎたので、最後に良かった点も少々。
物語の下地となる六部殺しの伝承というのは実際にあったそうです。
それから、誰かに見られているかもしれないという違和感や恐怖はおそらく誰しもが持っているもので、それを対象にしたということは良かったと思います。もしかしたら原作のほうがこれらの雰囲気が出ているのかもしれませんね。

「リップヴァンウィンクルの花嫁」から考えるSNSと自己開示



「リップヴァンウィンクルの花嫁」では、主人公の七海はそれほどコミュニケーションに長けた人物ではないため、その心情や本音をSNSに書き込むシーンが出てきます。
ちなみに映画ではプラネットという架空のSNS(LINEのようなtwitterのような)ものがそれにあたります。

七海のアカウント名は「クラムボン」。
宮沢賢治の童話「やまなし」に出てくる謎の言葉で、カニの子どもやらカニの泡やら不思議な光やら、諸説はありますが明確な答えはないもので、まさに実社会での存在そのものが揺らいでいる七海を表しているのでしょう。

「ワンクリックするだけで簡単に彼氏が手に入ってしまった」

これが七海がSNSでつぶやく一言で、七海はおそらくはじめて彼氏ができ、そして結婚することになったのだけど、これで良いのか自問自答をしているようでもあります。
そしてこのつぶやきは結婚式当日に夫にも見られていることが発覚(ただし七海だとは断言されていないが)し、七海はアカウントを変更します。

新しい七海のアカウント名はカンパネルラ。
こちらも宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」の登場人物で、主人公ジョバンニとともに旅をする同級生。
七海のキャラクターからすればジョバンニの方が個人的にはしっくりくるのですが、この後、真白とともに夢とも現実ともつかない世界へ足を踏み入れるという点ではうってつけなのかも。

さて、今回はこのSNSによる自己開示について。

自己開示とは、自分自身についての情報を他者に伝えること、公表することを言います。
初対面の時の自己紹介に始まり、強固な人間関係が築かれた後も継続的に行われていきます。
ただし、そのレベルは変化していき、初対面の時の自己紹介では、名前、出身地、職業などのその人を特定する情報に始まり、ある程度親しくなってくると趣味、嗜好といった個人の内的要因、特性についての情報が伝えられるようになり、かなり親しくなると、愚痴や不満といった否定的意見、さらには価値観や夢といった展望的志向的情報が加わるようになります。
自己開示のレベルで言うと、
1. 名前、出身地、職業などのステータス的な情報
2. 趣味、嗜好といった内的要因、特性
3. 愚痴、不満などの否定的意見、価値観、夢などの展望的情報
と3段階に分類できます。

また、自己開示は返報性の法則が働き、どちらか一方が自己開示をすれば、もう一方もそれと同等の自己開示を返そうとするという意識が働くため、両者のコミュニケーションの機会が増えるたびに、自己開示の量も比例して多くなっていき、それによって人間関係が形成、深化されていくと考えられます。

コミュニケーション能力の高さを示す1つの要因として、この自己開示の上手さというのが挙げられます。上手さというのは、自己開示の適切なタイミング、適切な質や量を判断できているということです。
これができることによって他者との対人関係を形成、維持していくことが可能になります。

このように、自己開示には人間関係の形成、維持という機能があるのですが、もう一つ重要な機能が、自己明確化です。
自分の考えや意見、価値観、態度、そういったものを自己開示することで、自分は何を考え、どのような意見や価値観を持ち、どのような態度でいるのか、またいるべきなのかを確認することができます。
また、愚痴や不満を吐露することで、心や感情を落ち着かせることにもつながります。

しかしこちらの自己明確化のための自己開示は、先述したように自己開示のレベルでは最も高次な部類に入るため、よっぽど理解のある、親しい相手でない限り難しいものになります。
とりわけ、七海のようにコミュニケーションがあまり得意ではない人ではなおさらです。

そんなコミュニケーションが苦手な人にとっても自己開示がしやすい場所が、SNSというわけです。

SNSと自己開示の関連の研究は数多くあります。
Matheson & Zanna(1988)では、周りからどう見られているかという公的自己意識と、自分で自分をどう思うかという私的自己意識がインターネットを通じての討論においてどのように変化するか調べたところ、公的自己意識は低く、私的自己意識が高くなることが示されました。
つまり、インターネットを介したコミュニケーションにおいては、自分が周りにどう見られるか、どう思われるかについてはあまり気にせず、自分自身についての内省的な意識がたかまると言えます。
それにより、自分の考えや意見を表明しやすくなると考えられます。

さらにJoinson(2001)は、インターネットを通じての討論場面を設定し、Webカメラで討論の相手が見えるか、カメラなしで相手が見えないかによる違いを比較した結果、カメラがない時の方が自己開示の量が増えることを示しました。
つまりはSNSだから、というよりは、相手が見えないという視覚的匿名性こそが自己開示に影響を与えるとしています。
相手が見えないからこそ、何を言っても構わない、何を言っても大丈夫という意識が働き自己開示が増えているということです。

コンピューターを介したコミュニケーション、特にSNSにおいてこのように自己開示が増える理由として、非言語的手がかりの少なさが挙げられます。コミュニケーションが苦手な人は自分の考えや意見を言葉にすることはできても表情や仕草といった非言語的コミュニケーションをコントロールすることが苦手と言われており、それによって意図せずに相手に伝わってしまったり、言外のことまで読み取られてしまうという不安や恐怖からコミュニケーションを躊躇してしまいます。

SNSの場合、非言語的手がかりの情報が制限されるため、文字通り、言葉通りに相手に伝えることができやすくなります。それゆえ、日常的なコミュニケーションが苦手な人でも、自分の気持ちや考え、意見を伝えやすくなるということです。

このように、コミュニケーションが苦手な人にとってはまさに救世主とも言えるツールになってきているSNSですが、そのコミュニケーションの容易さゆえに注意しなければならないこともあります。

1つは、自己開示が促進される一方で、何でも気兼ねなく言えてしまうことにより、討論や議論などにおいてそれが白熱してしまうと収拾がつかなくなってしまうこともあるということです。
SNSだからとつい普段より過激なことを書いてしまったり、発言してしまったりすることがお互いに起こりやすく、それがきっかけで相手への攻撃的な態度が出てきてしまったり、相手を傷つけたりしてしまったりすることがあります。

もう1つはSNSに過度に依存してしまうということです。
現実のコミュニケーションよりも気軽に利用できることで、そちらに没頭してしまうあまり現実のコミュニケーションがおろそかになってしまったり、自分のことを理解してくれる、受け入れてくれる人としかコミュニケーションができなくなってしまったりする恐れがあります。
SNSはあくまで現実のコミュニケーションをサポートするものと位置づけていれば効果的ですが、それのみに頼り切ることで孤独感やうつ傾向、ストレスが高まるということを示したデータもあるようです。

もはや全くふれずにはいられないほど私たちの生活に関わってきているSNSですが、上手な利用の仕方、つきあい方を考えていくことも必要ですね。

[引用]
Joinson, A. N. (2001). Self-disclosure in computer-mediated communication: The role of self-awareness and visual anonymity. European Journal of Social Psychology, 31, 177-192.

Matheson, K. & Zanna, M. P (1988). The impact of computer-mediated communication on self awareness. Computers in Human Behavior, 4,221-233.

「リップヴァンウィンクルの花嫁」感想。

リップヴァンウィンクルの花嫁
(公式HPより引用)

[story] 臨採の教員として働く皆川七海(黒木華)。彼女はSNSで知り合った鉄也(地曵豪)と結婚することになるが、結婚式に呼べる知り合いがおらず、SNS経由で知り合った安室(綾野剛)に出席者のサクラを手配してもらう。新婚早々、夫の不倫を疑った七海だったが、義母(原日出子)から反対に不倫の証拠を突きつけられ、離婚することになり家も追い出されてしまう。そんな七海に安室は自分が手配してもらったような結婚式のサクラ役のバイトを紹介される。そこで偽装の家族を演じた真白(Cocco)と親しくなり・・・。

「Love Letter」「スワロウテイル」「リリィ・シュシュのすべて」の岩井俊二監督の最新作は、なんと180分もの長尺作品になっていました。しかし、全く飽きさせない構成と映像の美しさで、その世界にずっと浸っていたいような気持ちにさせてくれる作品でした。

主演の黒木華はオーディションで選ばれたということですが、キャストが決まってから本格的な脚本が出来上がったということで、まさに彼女ありきでの企画ということになります。
主張の弱い、個性のない、どこにでもいそうな雰囲気の女性の成長譚ともとれる役どころは、まさに彼女にうってつけだったとも言えます。
「リリィ・シュシュのすべて」「花とアリス」の蒼井優を彷彿とさせるぐらいに岩井俊二監督の世界に溶け込んでいました。

彼女が様々な運命のいたずらの果てに出会う女性真白を演じるのはCocco。本人元々のキャラクターもありますが、エキセントリックでどこか実在感のない役柄にマッチしています。

そして、俳優兼なんでも屋の、市川RAIZOこと、安室行枡に扮するは綾野剛。
ビジネスライクなようでいて、親身になっているようでもいて、悪人でもあり善人でもあるような不思議な存在を飄々と演じています。

映画の構成も実に技巧的。

冒頭、七海はSNSで出会った男と結婚することになった件を、「ワンクリックで簡単に手に入ってしまった」とSNSに書き込みます。
さらには結婚式の親類役としてのサクラがずらりと勢揃いして、これもまたあっさりと舞台が整ってしまいます。
ヴァーチャルな世界のやり取りであっさり現実の関係性が出来上がってしまったのです。

しかし、その現実はいとも簡単に瓦解してしまいます。
夫が浮気していると思ったことがきっかけで、いつしか自分が浮気をしているという疑惑の証拠を義母に握られ、七海は離婚することとなり、住む家も失ってしまいます。

そこからの七海はようやく自分の足で立とうとします。
辿り着いたビジネスホテルの清掃バイトをし、なんとか生きていこうとします。
その後、安室に紹介されたバイトは、皮肉にも自分がかつて利用した結婚式のサクラでした。
そこでは見知らぬ他人とともに偽装の家族を演じることとなります。
ここで姉役だった真白と出会います。

真白と2人でカラオケバーに行き、七海が歌ったのは、森田童子の「ぼくたちの失敗」。ドラマ「高校教師」の主題歌となりリバイバルヒットした曲ですが、まさに七海の人生をなぞらうような歌詞です。

「君のやさしさにうもれていたぼくは、弱虫だったんだよね」

それに対して真白が歌ったのは、荒井由実の「何もなかったように」。

「人は失くしたものを胸に美しく刻めるから、いつもいつも、何もなかったように 明日をむかえる。」

すべてを失い傷ついた七海に対する真白の優しさが象徴的なシーンでした。
ちなみにこの時ピアノ演奏者として、RADWIMPSの野田洋次郎がカメオ出演しています。

終盤にかけて、安室は七海に割の良いバイトとして、富豪の豪邸のメイドの仕事を紹介します(月給100万!)。
這いつくばってでも生きようとした七海にとってはまた夢見心地のような世界に突入していきます。
そして、そこで再び真白と再会するのです。

このあとはネタバレになるので詳しくは書きませんが、現実と夢、本物と偽物の対比の構図が印象的でした。

なんとなく決まった結婚は現実で本物したが、もろくも崩れ去ります。
それに対して、安室の紹介で演じた偽装の家族は、文字通り偽物なわけですが、まさに本物の家族のように仲良さそうに見えます。

安室はまさに偽物を本物に見せることを生業としています。
結婚式のサクラもそうですし、映画本編にはありませんが俳優業も別の役割を演じている点で同様です。
そんなビジネスライクな彼が結局のところ七海の人生にも多大な影響を与えたということですが、ラストのあの衝撃のシーン、そして七海の再出発のために尽力するところ、ここだけは彼の本心がむき出しになっていたのではないでしょうか。

最後に、この意味深なタイトル「リップヴァンウィンクルの花嫁」についてですが、リップ・ヴァン・ウィンクルとは、、アメリカの小説家ワシントン・アーヴィングによる短編小説の主人公で、迷い込んだ森の山奥で不思議な人たちとゲームに興じ、酒を飲み交わしているあいだに眠りに落ちてしまい、気がついたら20年もの時が過ぎ去っていたという内容です(日本で言うと浦島太郎みたいなものでしょうか)。

本作ではそれになぞらうように、七海や真白をはじめお酒を飲むシーン、眠るシーンが多く出てきます。
つらい現実から目を背けるだけでなく、まるで夢見心地の世界に身をおくということも同時に示しているようです。

七海は様々な運命に翻弄されてしまいますが、究極的なところで人間の存在意義に気が付きます。
真白が話したコンビニ店員のエピソードは、まさに七海がバイトで偶然であった元同級生にしてあげたことですし、臨採の教員としては、声も小さく生徒にからかわれる始末でしたが、通信教育の生徒には必要とされています。
真白はまさに七海を必要としていたのですが、それ以上に七海を必要としている人がきっといるはずだと考えての選択をしたのでしょう。

自分が世の中に必要ないと思っている人、誰からも愛されないと思っている人、そんな人にこそ見てほしい1本でした。

「サウルの息子」から考える、内集団びいき・内集団バイアス

camp006.jpg

「サウルの息子」では、サウルは自身が生き延びることよりも、ユダヤ人という民族の未来を選びます。
サウルと、この「息子」の関係については、前記事の『「サウルの息子」感想。』に記載の通りなのですが、そこまでしてサウルを駆り立てたものとは何だったのでしょうか?

人は誰しも何からの集団に属しています。
例えば、「○○大学の学生」とか「北海道出身」とか「日本人」とか「男性」とか。これらはすべて「集団」と捉えられます。
この時、自分が所属している集団のことを「内集団」と呼び、それ以外の集団を「外集団」と呼びます。
上記の例で言えば、「○○大学の学生」が内集団の時、「××大学の学生」は外集団となります。
同様に、「北海道出身」が内集団だとすれば、「北海道以外(北海道の人は内地なんて言ったりします)の出身者」が外集団、「日本人」を内集団とすれば、「外国人」は外集団、「男性」を内集団とすれば、「女性」を外集団ととらえます。

そして、自分がその集団に所属している自覚や意識があることで、どうしても自分の所属している内集団を、他の外集団よりも魅力的と捉えていたり、優れているものとみなしたりすることが知られています。
これを、「内集団びいき」、もしくは「内集団バイアス」と呼びます。

この内集団びいきによって、サウルは「息子」をユダヤ人そのものの未来ととらえ、その埋葬のために命をも賭けたのだと言えます。同時に、ナチスからしてみても自分たちが「内集団」なので、それを優れた人種と思い込むあまり、ユダヤ人という「外集団」を差別の対象とすることで、つまり卑下することによって自分たちの優位性を示そうとしたのでしょう。

このような民族性における内集団の意識、ひいては内集団びいきが生じるのは納得のいく部分もあると思います。
では、この集団の定義はどれぐらいのものから効力があるのでしょうか?

内集団びいきの有名な研究として、Sherif(1969)のサマーキャンプ実験というものがあります。
この実験では、野外キャンプに参加した少年たちを2つのグループにランダムに分け、それぞれ「イーグルス」「ラトラーズ」とグループ名をつけました。それぞれのグループは別々のテントに分けられ、キャンプ中の活動も別々に行いました。
そして、グループ間での競争意識を高めるために、綱引きなどの勝敗が明確な競技をグループ対抗で行いました。
その結果、相手のグループのメンバーに敵対的、攻撃的な態度が増加したことが示されました。
さらに、競技で活躍したものはグループ内での序列が高くなり、反対に足を引っ張ったものは立場が悪くなったりするなど、グループ内での人間関係にも変化が生じました。
これはナチス党の1党員にすぎなかったヒトラーが、ユダヤ人に対する差別を掲げた演説により影響力を増していった過程とも一致します。

Sherifの実験に話を戻します。
このサマーキャンプ実験で、お互いに対する攻撃的な行動はどんどんエスカレートしていき、相手のグループのものを盗む、相手のグループの旗を燃やすなどの行動が見られるようになりました。
そこで、実験的な介入として、この集団間の葛藤を解消する方法について考察していきます。

Sherifはまずお互いのグループがキャンプの場所や活動が別々であったことが原因ではないかと考え、両グループ合同のキャンプファイヤーを企画します。焚き火を囲んで、輪になって歌おうと考えたのです。
結果は、完全に逆効果で、両グループは別々に分かれて座り、ことあるごとに相手グループに攻撃的な態度を示しました。
グループ間の葛藤を解消するために考えた方法が、皮肉にもかえって両グループの対立を助長してしまいました。

Sherifは、次に、この2つのグループが協力しないと解決できないような問題を設定します。
具体的には、キャンプ場に食料などの物資を運んでくるトラックが途中でエンストしてしまったため、両グループで協力してトラックを動かすことをお願いします。
ここにきて、ついに両グループは協力してトラックを動かすことに成功します。そして、それにより両グループ間の葛藤が解消されることになりました。
ちなみにこのトラックを動かすために使ったのが、最初にグループ間の葛藤になった綱引きのロープだった、というオチもついています。

Sherifの実験により、以下のことが示されました。
1. 明確にグループ分けされることで所属意識が生じるとともに、内集団びいきによって外集団を卑下するようになる。
2. グループ間の葛藤は、競争的、すなわち明確な勝敗の分かれる競技などによって助長される。
3. 競争的な状況における活躍度、貢献度によって、グループ内の序列、人間関係が変化する。
4. グループ間の葛藤が生じた後では交流を深めるような介入はむしろ逆効果である。
5. グループ間の葛藤は、協力、強調しないと解決できないような問題に取り組ませることで解消される。

このように集団意識というのは内集団においてはお互いの意識を高め合うという点で効果的になりますが、その影響として外集団への対応や考えが悪化してしまうことがわかります。

さらに、Biglerら(1997)の実験では、子どもたちを2つのグループに分け、ある実験を行いました。この時のグループ分けに用いた基準が、髪の色(生まれつきの身体的要因)、または着せられる服の色(ランダムに決定)のどちらかでした。さらにランダム群では、「色分けに特定の意味はないということを強調した」グループ(統制群)もありました。

4週間後にそれぞれの子どもたちに、集団に対する意識を聞いたところ、子どもたちのうち80%が、「外集団には移りたくない」と回答し、67%の子どもが「何かの競争をしたら自分の集団が勝つ」と回答しました。
これはグループとしてことさら意識をさせていない統制群でも同様の結果となりました。
一方、外集団に対する印象を調査したところ、明確に悪化していたのは統制群以外の2つの条件でした。つまりは自分たちを集団として意識していたグループです。

Biglerらの実験により、以下のことが示されました。
1. 内集団びいきは、たとえ集団としての意識がなくとも外集団との区別がついてしまうだけで生じる。
2. 外集団を低評価したり卑下したりするのは、集団としての意識、つまりは内集団と外集団の違いを認知することが影響している。

つまり集団としての意識は、この2つの実験のようにランダムに振り分けられた場合でも、メンバーが集団の一員であると認識し、別の集団を外集団とみなすことにより生じるものなのです。そのようにランダムに分けられた集団ですら上記のような影響が見られるのに、これが、民族、人種、国籍、地域性、職業、階層、性別といった明確な区分がある場合、この集団としての意識が、内集団びいきをもたらし、外集団に対する嫌悪感が増大し、様々な偏見が生まれてしまうということがわかります。

このような集団意識にとらわれない、内集団びいきを起こさせないためには、そもそも集団と認識させないことが有用であると考えられています。これは「脱カテゴリー化」と呼ばれており、集団という枠を外すことで、その個人個人を見つめることができるようになります。
他人を完全に理解するのは難しいことですが、ぜひとも心がけていきたいことですね。

[引用]
Bigler, R., Jones, L. C., Lobliner, D. B. (1997). Social categorization and the formation of intergroup attitudes, Child Development, 68, 530-543.

Sherif, M.(1966). Group Conflict and Co-operation: Their social psychology, London: Routledge and Kegan Paul.

「サウルの息子」感想。

サウルの息子
(公式HPより引用)

[STORY] 1944年10月。当時最も過酷とも言われていたアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。ハンガリー系ユダヤ人のサウルは、ゾンダーコマンドとして、同胞であるユダヤ人の死体処理をさせられていた。ある日、サウルはガス室で生き残った少年を発見する。ほどなくして殺されてしまった少年を、サウルは自らの息子だと主張し、ユダヤ教の教義に則って手厚く葬ろうとするのだが・・・。

カンヌ国際映画祭のグランプリ、そして米アカデミー賞の外国語映画賞を受賞するなど、世界中で大絶賛された作品です。

昨年2015年は終戦60年ということで日本でも多くの戦争映画、反戦映画が製作されましたが、世界的に見ればやはりナチス・ドイツがその象徴的存在であることもあり、ドイツを中心に第二次大戦やナチス、ホロコーストを描いた作品が目立った1年でした。

そんな中、本作はゾンダーコマンドと呼ばれる特殊な任務にあたっていた人物を中心に描いています。
ゾンダーコマンドは、同胞であるユダヤ人をガス室に送り込み、その後の死体の処理や遺品から金目の物を収集するなどの役目を負わされています。いかにナチスと言えども自ら直接的に手を汚したくないという意識がこの役回りを生んだのでしょう。

冒頭、サウルのドアップが映しだされますが、その表情には感情らしさが感じられません。
画面サイズがビスタサイズという通常よりも横幅の狭い画面になっており、サウルの顔が大写しになると、見ている側には他の絵がほとんど入ってきません。さらに被写界深度をあえて浅くすることで、背景の映像が意図的にぼかされています。
この2つの手法により、サウルの無感情さを表現しつつ、さらに見ている人に直接的な絵で見せないということを実現しています。
印象的なのが、ガス室内でもがいているのか、金属製の扉を必至で叩いている音だけが響き渡ります。
同胞を死に追いやるという「作業」は筆舌に尽くしがたいものがあります。
事実、サウルも感情を殺すことでどうにか折り合いをつけていた、そんな印象を抱かせるシークエンスです。

そのサウルが変化を見せるのが、ガス室で生き残った少年を発見したときです。
この少年は結果的に死に追いやられてしまいますが、サウルはその少年を実の息子だと主張します。

ここからサウルの行動は、同胞から見ても常軌を逸したものになっていきます。
彼の望みは、この少年をユダヤ教の教えに則って葬るということ。
死者を埋葬するどころか、生きている自分たちの明日さえわからないのに?
そんな疑問を見ている側も抱くことになります。
このあたりのカメラワークが長回しになっていて、視聴者はまさにサウルたちの同胞として彼の行動を見守ることになります。
危険をかえりみず、「息子」を弔うためのラビ(ユダヤ教の聖職者)を探し続けるのです。

ここで予備知識が全くないとサウルが気でも触れたのか?としか思えないので、ちょっと補足です。

ユダヤ教では、死者を教義に則って埋葬することによりやがて復活することができる、と信じられています。
ところが、強制収容所では多くの死体を埋葬することは出来ないので、火葬にされていました。
この事実を知っていれば、サウルの行動も頷ける気がします。なるほど、自分の息子が生まれ変わることを願っているんだなと。
しかし、この映画にはもう1段仕掛けが用意されています。


↓↓↓ネタバレ注意!↓↓↓


サウルはラビを探す途中で顔見知りのユダヤ人に会いますが、彼らは口々に「お前の息子はとっくに死んだじゃないか?」と言ってきます。
これに対してサウルは明確な回答をしませんが、おそらくこれは事実なのでしょう。
つまり、この少年はサウルの息子ではないのだと。
にもかかわらずサウルを奔走させるものは一体何なのか?

それは、ユダヤ人の未来です。
ゾンダーコマンドとして多くの同胞を死に追いやりながらも自分はその任務のために生きながらえていました。
しかし、ゾンダーコマンドはその存在を外部に知られないためにもやがて秘密裡に殺害される運命にあります。
当然サウルも自分が最後まで生き延びる可能性はないに等しいことが分かっていたのでしょう。
そのサウルの想いをイメージしながら、ぜひあのラストシーンを見ていただきたいと思います。

サウルの最後の望みは、いつか戦争が終わった時に、ユダヤ人という民族がいたことを後世に残すことだったのでしょう。
サウルの決死の行動の裏では、ゾンダーコマンドを中心に強制収容所の脱走計画が持ち上がっています。
少しでも自分たちが生き残る可能性にかけた彼らと、ユダヤ人の未来に自分の命を賭したサウルがなんとも対称的でした。
プロフィール

Author:すぷーとにく0107
FC2ブログへようこそ!
中の人は、北海道は札幌市在住です。
映画館で年間200本は映画を観ます。
当ブログでは、映画のレビューをしつつ、勉強している心理学ネタでも書いていけたらいいなと思っています。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる