「テラフォーマーズ」から考えるゲインロス効果



先の記事で、「テラフォーマーズ」は出オチ映画とも書きましたが、スゴイ強いやつ!→瞬殺、頑丈な宇宙船→あっさり破壊、というコンボが目立っていました。

Aronson & Linder(1965)では、女子大生を実験参加者として、言語条件付けのアシスタントをお願いします。
そこで別の実験参加者(実験者のサクラで実験者によって反応をコントロールされている)によって魅力度評定をされます。このときサクラの魅力度評定は以下の4条件がありました。
A) 最初から一貫して魅力度は高く評定される(好意-好意条件)。
B) 最初から一貫して魅力度は低く評定される(非好意-非好意条件)。
C) 最初は魅力度が低く評定されるが、だんだん高くなっていく(非好意-好意条件)。
D) 最初は魅力度が高く評定されるが、だんだん低くなっていく(好意-非好意条件)。

実験終了後、アシスタントをしてくれた実験参加者がこの評定者に対してどれぐらい好意を持ったかを調べたところ、C > A > B > Dの順に評価が高くなっていました。

つまり、最初から一貫して魅力的と評価されている(A)よりも、最初は評価が低かったのが高くなっていった(C)の方が、より好意を持たれたということになります。
これは、評価そのものの高さよりも低い評価から一転して高い評価に変わるという変化量の大きさの方が影響力があるということを示しています。
このことを、ゲイン-ロス効果と呼んでいます。

このゲイン-ロス効果は様々な場面で応用されます。
一見クールな人が実は優しかったり、チャラそうな人が実は真面目だったりすると、元々イメージ通り優しかったり、真面目だったりした人よりも高く評価されがちです。
いわゆるギャップ萌えという現象もこのゲイン-ロス効果が根底にあるわけですね。

映画の評価でも同じです。
あまり期待していなかった映画が案外面白かったりすると、最初から期待していたとき以上に高く評価してしまいがちです。
これもゲイン-ロス効果によるものです。

で、「テラフォーマーズ」では、こいつは強そう→あっさりやられる、という見ているものの期待を秒で裏切るような展開が散見しました。
ここで、先の実験のBとDを見てみましょう。
この比較では、 最初から一貫して魅力度は低く評定される(B)方が、 最初は魅力度が高く評定されるが、だんだん低くなっていく(D)よりも、好意度の評価が高くなっていることがわかります。つまり、最初に高評価して変な期待を持たせるぐらいなら、ずっと低評価だった方がましだということなのです!

本来ならばスゴイ強いやつが瞬殺された!敵はさらに強いのか!ってならなければないけないのですが、ゲイン-ロス効果では、期待させるだけさせといてこのザマかよ?みたいな形に捉えられてしまいますね。

これは映画全体の評価にも通じていて、前評判で期待されればされるだけ・・・あとは、言わずもがなですね。

ただし、これらの評価も結局は事前の情報や先入観、期待などによってゆがんでしまっている一種のバイアスによるものなので、そういった情報に引っ張られず、ニュートラルな状態で鑑賞に臨みたいですね。

[引用]
Aronson, E. & Linder, D.(1965). Gain and loss of esteem as determinants of interpersonal attractiveness. Journal of Experimental Social Psychology, 1, 156-171.
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「テラフォーマーズ」感想。


(公式HPより引用)

[story]
人口の爆発的増加に伴い、人類はコケと“ある生物”を送ることで火星を地球化させようとした。この火星移住計画から500年、2599年に計画の仕上げのために15人の隊員が火星へ送り込まれたが、“ある生物”は人型に異常進化した凶暴な驚愕生物へと姿を変え、隊員たちに次々と襲いかかってくる。しかし、この隊員たちも秘密裏の手術によって昆虫のDNAを媒介して虫の姿に“変異”し、超人的なパワーを発揮できるようになっていた。小町小吉(伊藤英明)を中心とする15人の隊員たちと、異常進化しテラフォーマーと呼ばれる謎の生物との壮絶な戦いが始まった!だが、その裏で、もうひとつの陰謀が着々と進んでいた・・・。

作:貴家悠、画:橘賢一にによる同名コミックを、三池崇史監督が実写映画化したのが本作です。
原作コミックは、2013年版『このマンガがすごい!』オトコ編で1位を獲得するなど評判の原作のようですが自分は未読の状態で鑑賞しました。
ちなみに映画では原作コミック1巻の内容を描いているようです。

人気コミックの実写映画化といえば、2015年に良くも悪くも話題をさらっていった「進撃の巨人」がありますが、本作はそれに勝るとも劣らない前評判を誇っていました。
まあ、良い意味でも悪い意味でも。

具体的に言うと、
1. 原作では多国籍なのに、映画では無理やり日本人にしてしまっている。
2. そもそも日本映画のSFアクションなど見るに耐えない。
3. マンガ、アニメで十分なのに、なぜ実写化したのか?
4. 予告編を見た感じ、絶望しかない。

こんなところでしょうかね。

1はまさに「進撃の巨人」でも言われていたことですが、日本人に置き換えたことより、そんな名前の日本人などいない!という理由でリヴァイはなかったことにしたのに、エレンやアルミンはそのままの名前だし、シキシマという謎キャラ出したりといった後付けてきな言い訳がよくなかった印象です。
「テラフォーマーズ」は原作未見なので(よく考えたら「進撃の巨人」も映画鑑賞時は原作読んでませんでした)キャスト面の違和感などはよくわかりませんが、国際情勢的な問題がからみ合って隊員たちの間で対立が生まれたりする部分が全員日本人では全く活きてこないため、行動理念そのものが揺らいでしまうという問題点につながっています(あれ?「進撃の巨人」よりも致命的?)。

2はこれまた予算的な問題もあるしハリウッドの大作と単純に横並びで比較できない現状はあるとは思いますが、「進撃の巨人」に関してはビジュアル的な迫力は十分だったと思います。後編で巨人がやたらと過疎ってることぐらいでしたかね、問題は(大問題?)。
「テラフォーマーズ」では昆虫のDNAでブーストした半虫半人みたいなキャラクターはビジュアル的にはそこそこ面白いけれど、アクション的な面白さでいうとそこまでではなかった気がしますね。

3は人気コミックの宿命のようなもので原作ファンにとっては複雑でしょう。
原作とかけ離れすぎると原作ファンからブーイングをくらい、かといって原作に忠実すぎると実写映画化する意味合いが薄くなってしまうというある種のジレンマ状態になります。
「進撃の巨人」では原作、アニメと評判が良く、ハードルがかなり高い状況での実写映画化ということで、制作陣が言い訳めいたコメントをしたくなるのも仕方がないかもしれません。
一方、「テラフォーマーズ」は原作はともかくアニメの段階での出来に疑問符だったということで、実写映画化を挽回のチャンスと捉えるか、失速した状態での発進と捉えるか、これまた微妙な立ち位置になってしまったのかもしれませんね。
三池監督はそんなの気にしてないと思いますけどね・・・。

4は「進撃の巨人」は前評判ほどは悪くないのでは?という印象でした。ハンジ役の石原さとみのぶっとんだキャラに引っ張られた感もありましたけどね。
「テラフォーマーズ」は、予告を見た瞬間、やばい予感しかしませんでしたね。
しかもだいぶネタバレしてしまっている上に、予告が流れた期間が長すぎたために、見ている側も辟易してしまうレベルでした。

と考えていくと、「進撃の巨人」以上に厳しいスタートを切りそうな「テラフォーマーズ」ですが、はたして。

「テラフォーマーズ」は地球の人口が爆発的に増加してしまったことにより、新たな移住先として火星をコロニーとする計画が持ち上がり、コケと“ある生物”を火星へ送ります。公式HPを見ると、やがてテラフォーマーと呼ばれるこの生物をやたらとぼかしているんですよね。
ビジュアルとしては出まくっているし、予告編にも登場するし、本編でもすぐに名指しで呼ばれているのに。
これ、前回の「アイアムアヒーロー」の記事で書いた日本映画におけるゾンビ以上にかたくなに存在を隠しているので、それほどまでのタブーということなのか、それとも「ハリー・ポッター」シリーズのあのお方みたいなものなのか、単に明示すると初見の人が毛嫌いしそうだからなのか。

レビューを書くにあたって、原作1巻だけ読んでみました。
原作でもはっきりこの生物について言い切っちゃってます。
まあそもそも火星移住計画そのものからしてツッコミどころ満載な気もしますが、これは原作と同様ってことで映画だけの問題ではありませんでした。

この計画から500年たち、時は2599年!
計画の仕上げとして15人の隊員が火星に送られることになる。
この15人は何やらワケありクセありなキャラが揃っているのですが、火星についてみるとそこには、テラフォーマーと化した"ある生物"が!
面倒くさいので言っちゃいますけど、あの生物ってゴキブリね。
酸素を作るためのコケとコケを繁殖させるためにゴキブリを送ったってのが500年前の計画です。それがゴキブリの生命力が強すぎて異常進化しちゃったっていうね。
コケはともかくなぜゴキブリを選んだのかが謎すぎるんですが、そこで突っ込んでたらお話始まらないから割愛です。

15人の隊員は火星移住計画の実験を握る 本多博士(小栗旬)の策略によって火星に連れてこられたのだった。
しかも異常進化したテラフォーマーに対抗するために人体改造をされており、昆虫のDNAをブーストすることで特殊能力を発揮できるようになっていた!

この15人の隊員も犯罪者だったりチンピラだったり、あるいはお金に困っていたりなどのいわくつきな人物ばかり。
役者名、DNAを配合された昆虫の種類とともに紹介しますと、

小町小吉(伊藤英明) ・・・オオスズメバチ 
妹的存在の奈々緒を守ろうとした際の殺人容疑で逮捕されたところを本多博士に拾われる。刑罰を逃れるのと引き換えに計画に参加する。

秋田奈々緒(武井咲) ・・・クモイトカイコガ
自分を救ってくれた小吉を死刑にしないために計画に参加。

武藤仁(山下智久) ・・・サバクトビバッタ
元キックボクサー。自分より強いものがいるのが許せない。小吉にやたらと絡んでくるが、生きる目的も喜びも失っている男。やたらと英語を使うがなぜかは不明。

蛭間一郎(山田孝之) ・・・ネムリユスリカ
病気の母親と幼い弟妹がたくさんいる貧しい家庭を支えている。大学で研究をしていたが教授にはめられクビに。お金を稼ぐために計画に参加。天才ハッカーでもある。

ゴッド・リー(ケイン・コスギ) ・・・ミイデラゴミムシ
元テロリスト。紛争地帯で戦っていた不死身の男。純粋な日本人だがなぜかゴッド・リーと呼ばれている。

森木明日香(菊地凛子) ・・・エメラルドゴキブリバチ
元警官。押収した金に手を出したために、クビになる。
元ヤクザの隊員と対立する。

大迫空衣(篠田麻里子) ・・・クロカタゾウムシ
元少女売春組織のリーダー。嫌らしい目線で迫ってくる手塚を最初は煙たくあしらっていたが、やがて・・・。

連城マリア(太田莉菜) ・・・ニジイロクワガタ
空衣とともに売春組織を運営していたロシア人。

手塚俊治(滝藤賢一) ・・・メダカハネカクシ
若い女性、とりわけネイルに目がないサイコ・キラー。

吉兼丈二(渋川晴彦) ・・・ゲンゴロウ
ヤクザ。

虎丸陽(黒石高大) ・・・オケラ
ヤクザ。

総田敏雄(青木健) ・・・瞬殺されるため不明。オニヤンマか?
ドレッドヘアのテロリスト。

町岡隆太(長尾卓也) ・・・瞬殺されるため不明。マイマイカブリか?
テロリスト?

大張美奈(小池栄子) ・・・ハナカマキリ
バグズ2号の副艦長。昔付き合っていた男のせいで火星に送り込まれた。

堂島啓介(加藤雅也) ・・・パラポネラ
バグズ2号の艦長。上司を殴って一度はクビになりかけるが、火星に行くことを条件に隊長として復職する。テラフォーマーの存在を最初から知っていた様子。

という15人でした。うん、ツッコミどころあるね。

彼らが昆虫のDNAを注入して、半昆虫化してテラフォーマーと戦うわけですが、実は、「その裏で、もうひとつの陰謀が着々と進んでいた」(公式HPのSTORYより)
それは書いちゃうんかい!ある生物はやたらと伏せているくせに!
というわけで、テラフォーマー退治すら知らされていなかった隊員たちですが、さらにその裏で陰謀も渦巻いているようです。
一体誰がそんな陰謀を?裏で糸を引いているあやしい奴は一体誰だ?
その正体はぜひ劇場で笑。

とまあ世界観からキャラ設定からストーリーから何から何までツッコミどころ満載という気がしないでもないですが、本作の感想をまとめると以下の様な感じになります。

1. 出オチ映画である。
予告編での武井咲のシーンもそうですが、本作はとにかく出オチが多い。
上記の隊員で瞬殺されたと書いていない人でも思いの外あっさりと死んでいきます。
代表的なのが、ケイン・コスギ扮するゴッド・リー。
テラフォーマーと最初に直接的に対峙するのは彼ですが、元テロリストで不死身の男+昆虫DNAによるブースト=最強!→あっさりやられました。というコンボが決まります。
他のキャラも昆虫DNAによる特殊能力で見せ場を作る→やられる、という感じで映画から退場していきます。
他にも、テラフォーマーに宇宙船が攻撃された時も、「この宇宙船の装甲は破られることはない!」→ダメでした、とかとにかく煽った2秒後にはオチが来ます。
ただ、これも割りと原作通りで、それに三池監督流のエッセンスが加わった結果みたいですね。そもそも砂漠が舞台になっているのに埼玉県とテロップ出したりする人だから驚くことはありませんね。

2. キャストのみんな、どうした?
本作を見て最初に思ったのが、伊藤英明ってこんな演技下手だっけ?ということ。
「海猿」も確かにベタなキャラではありましたが、それでも演技下手という印象には直結しませんでした。
武井咲がテラフォーマーに襲われて、「なにすんだてめー」と言うところが代表的で、これ見ただけで映画の出来が心配になります(的中です!)。
そして、本多博士を演じる小栗旬ですが、もはや1周回って楽しくなっちゃってるのかな?とすら思わせてくれる演技、というよりキャラでした。原作ではそこまで誇張されていないので映画オリジナルのキャラ作りということになります。
実写版「ルパン三世」といい、酷評必至な作品に出続けているのは勇気なのでしょうか?
それに対して、山Pこと山下智久は本作では非常に頑張っています。
なぜだかは語られないが、伊藤英明扮する小吉に対抗意識を燃やしたり、
なぜだかは語られないが、武井咲扮する奈々緒のことをちょっと気に入っていたり、
なぜだかは語られないが、生きる希望を失っているという・・・。
このあたりはキャラの背景が語られないことにも起因します。
計画に参加する理由が示されるのは、小吉と奈々緒、あとは山田孝之扮する一郎ぐらいで、他は口頭でさらっと言われる程度か役どころからお気づきでしょうというレベル。
山Pにいたっては語られてすらいなかった気がします。
自分より強い奴がいるのが許せないっていうドラゴンボール的理由ということにしておきましょう。
と思っていたら原作ではこの厨二病的な設定の背景も描かれていました。映画ではそれがないので終盤にいきなり絶望しだしてどうしたの?状態に。

3. 世界観もなんだか・・・
地球は人口の爆発的増加により貧富の差が激しくなり、住む場所もなくなってきたので、火星移住計画がスタートするのですが、退廃的な世界を描いただけで、この説明が感じられるシーンはほとんどありません。
一郎の家だけやたら貧乏描写がはっきりしていますが、2599年なのに昭和臭溢れる描き方でした。
もちろん尺の問題もあるのでしょうが、ひさや大黒堂の「ぢ」の文字ばかりが目立つ退廃的な東京は、どう見ても「ブレード・ランナー」の世界観をモロパクリしているだけといった印象を拭えません。

とまあ、気がついたら否定的な面ばかりピックアップしてしまったかもしれませんが、昆虫のDNAによりブーストするシーンは好みはあると思いますがそれなりです。
その時に、その昆虫の特徴と能力を解説してくれます。
ナレーションは池田秀一で渋目の声での説明は魅力的です。

邦画アクション大作としてはともかく、戦隊モノのノリで見に行く分には問題ないできだと思います。
お時間のある方はぜひどうぞ!
お忙しい方はこの記事読んでもらえればだいたい見たみたいなことになりますので大丈夫ですよ笑。

「アイアムアヒーロー」から考えるパニック時の心理学



「アイアムアヒーロー」では平凡で人並み以下の暮らしをしている英雄が、突如として訪れた日常の終焉に戸惑い、逃げ惑いながらもヒーローとして立ち上がっていく様を描いていました。

しかし、序盤ではてっこの異変に気づきながらも呑気に話しかけたり、町中に出てからもZQNに普通に話しかけてしまったりしています。

Leach(2004)では、非常事態においても冷静な判断や行動ができる人は全体の10~15%程度に過ぎず、我を失って泣き叫ぶ人が10~15%程度で、残りの大半の人は呆然として冷静に考えることができずに何もできない状態になってしまうことが示されている。
この大半の人のように、大きな災害や事故が発生した時に、その状況を認識したり処理したりすることがうまくできずに、反応が鈍くなり何の行動も起こせなくなってしまうことを、凍りつき症候群(freezing)と呼んでいます。

人は未曾有のパニック状態に瀕すると、目の前の出来事に対する情報処理が追いつかずに思考停止してしまうため、たとえ脱出や避難の方法がある状況においても、判断や行動を起こすことができずに犠牲になってしまうことがあるのです。

なぜ、目の前に明らかな危機が迫っているにも関わらず、人は行動できないのでしょうか?
広瀬(2005)は、テレビ局で撮影待ちのエキストラを対象に、待合室に煙を流入させた時の反応に違いあるかを、以下の条件を変更して比較した。
A) 煙の流入速度(通常 or 倍速)
B) 人数(1人 or 3人 or サクラ2人と一緒)
C) 事前の注意喚起(あり or なし)

A)の条件について、煙の流入速度が倍速の時は、通常の時よりも煙に気がつくのが早く、避難するまでの時間も短くなり、最後まで部屋に滞在し続けた人の割合も小さかった。
B)の条件について、煙の流入速度が通常時は差がなく、倍速の時には、1人の時よりも3人の時の方が、避難するまでの時間が長くなっていた。またサクラ条件においては、煙が流入してきているにもかかわらずサクラは何の行動もしないため、一緒にいた参加者も避難することはなかった。
C)の条件について、事前に「何か心配なことがあったらスタッフに言って下さい」と注意喚起されていた人は、煙に気がつくのも、避難を開始するのも早かった。

この結果で衝撃的なのは、部屋に煙が充満してきているにもかかわらず実験終了(煙流入から8分)まで部屋に滞在し続けた人がいるということです。
これは、たとえ異常事態が発生したとしても、自分がそのような状況に巻き込まれるはずがない、自分は大丈夫だと考えてしまうことで、心の平静を保とうとするところから来るそうで、このことを正常性バイアス(あるいは日常性バイアス、恒常性バイアス)といいます。
たとえ非常ベルが鳴っても、それを非常時であると捉えるよりは、避難訓練でもあるのかと考えたり、非常ベルの誤作動と捉えたりするのも、このバイアスの影響が考えられます。

この実験結果と同様の事例として、1980年に起きた栃木県の川治プリンスホテル火災事件や、2003年に起きた韓国・大邱市での地下鉄放火事件があります。
いずれの事件も非常ベルが鳴ったり、煙が流入してきたりしていたのにも関わらず、避難行動をしなかったため犠牲になった方がいたことが知られています。

またこうした非常時において人は周りの人の判断や行動を参考にします。上記の実験でも、1人より3人の方が避難行動にうつるまでに時間がかかっているのは、参加者がお互いにお互いの様子を伺ってしまうからです。
これは、サクラ条件においてサクラが何も反応しないことにより、同室にいた参加者が最後まで避難しなかったことからも裏付けられています。
これは先日の記事、「スポットライト 世紀のスクープ」から考える信念バイアスと同調」で紹介した同調による影響です。
正常性バイアスにより異常事態でも平然としてしまうことで、周りの人がそれに同調してしまい、たとえ異常事態だと気がついても行動を起こすことが出来なくなってしまうという悪循環に陥ってしまうのです。

このような事態にならないための解決策の1つも上記の実験結果で示されています。
事前に注意喚起されていた人は、そうでない人に比べていち早く避難しています。
この時の注意喚起は、「何か心配なことがあったらスタッフに言って下さい」という漠然とした内容だったのですが、それだけでも不測の事態に対する認知的レディネス(準備状態)が高まったことによって、結果として危機を回避することができています。
日頃から、周囲の判断を鵜呑みにせず、自分なりの危機回避対策や意識を持っていることが重要になりそうです。

今でこそ熊本で地震が発生した直後ということもあり人々の危機意識は高まっていますが、また時間が経つことによってその意識が薄れてきた頃、同じような被害に合わないようにするためにも注意意識を高く持っていたいところです。

「アイアムアヒーロー」でも、自分がどうなったのかわからないままにZQNに襲われている描写がたくさんありました。
また自分がZQN化していることに気がつかない人もいました。
これこそがまさに正常性バイアスの影響です。
また大多数の人が凍りつき症候群に陥ることで、一部の的確な判断や行動を起こせる人にコントロールされる可能性もあります。
これがあのアウトレットモールにいた井浦のような人物だとしたら?

様々な災害や事故が考えられる昨今だからこそ、改めて気持ちを引き締められる思いですね。

[引用]
広瀬弘忠・杉森伸吉(2005). 正常性バイアスの実験的検討. 東京女子大学心理学紀要, 1, 81-86.

Leach, J.(2004). Why People 'Freeze' in an Emergency: Temporal and Cognitive Constraints on Survival Responses. Aviation, Space, and Environmental Medicine, 75, 539-542.

「アイアムアヒーロー」感想。


(公式HPより引用)

[story]
漫画家アシスタントとして日の目の見ない平凡な日常を過ごす鈴木英雄(大泉洋)。徹夜で仕事を終えて部屋に戻ってみると、同居している恋人、徹子(片瀬那奈)が豹変した姿で襲い掛かってくる。からくも逃げ出した英雄だったが、徹子と同じように変貌した人たちが溢れ、町はパニック状態に。英雄は逃げる途中で出会った女子高生、比呂美(有村架純)とともに、標高が高い場所ならば感染しないという噂をたよりに富士山を目指すのだが・・・。

花沢健吾の同名コミックの実写映画化。
監督は「GANTZ」「図書館戦争」シリーズの佐藤信介です。

最初に言っておきますが、本作は完全なるゾンビ映画です。
意図的かどうかはわかりませんが予告編ではあまりゾンビそのものにスポットを当てていないために、そして大泉洋主演ってこともあり、コメディーチックに見えているかもしれません。確かにコメディー要素もあって笑えるシーンも有りますが、圧倒的にゾンビ映画です。R15です。血も出ます。

日本はゾンビ映画にとっては不毛の地なのか、あまり制作もされなければ、ヒット作もないという状況です。
映画好きな人はわりと熱狂的に見ていると思うのですが、興行的なヒット作は少ないかもしれません。

ゾンビ映画は、起源をたどっていくとブードゥー教の呪術におけるゾンビが登場したのが最初ですが、今もなお支持されているゾンビ像を決定づけたのは、ジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」でしょう。ここでのゾンビは、(1)死者が何らかの理由により蘇ったもの、(2)肉体的には死んでいるため、動きは遅い、(3)生者を襲い、噛まれた者もまたゾンビと化す、(4)生命力は強く、頭部もしくは心臓を破壊しないと死なない、といった基準があり、それは今後のゾンビ映画ほとんど全てに合致します(「ドーン・オブ・ザ・デッド」「28日後」では走るゾンビも出てきますが)。

さらにその後、ジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」では、戦闘の舞台としてショッピング・モールが登場します。
ソリッド・シチュエーションでもあり、かつ武器として使えそうなアイテムが豊富にあるというなんとも魅力的なこの設定もまた多くの映画がトレースしていくことになります。

その後、多くのゾンビ映画が作られていますが、日本ではこれといったヒット作がないのも事実です。
上記の作品も映画ファンの間では人気ですが、一般的なウケという意味では微妙なものもあります。
ゾンビパニックと遊園地を合体させたコメディータッチの「ゾンビランド」や、ゾンビものにしてラブストーリーという「ウォーム・ボディーズ」、チキンナゲットを食べた子どもたちがゾンビ化する「ゾンビスクール」、親子愛がテーマになった「マギー」など、そこそこ話題になってはいるとは思うのですが、誰もが見るような大作とは言いがたいですね。

近年の作品でブラッド・ピット主演の「ワールド・ウォーZ」という作品がありますが、これも紛れもないゾンビ映画なのですが、日本公開時のトレーラーやポスターにはそれを匂わせるものが一切なく、あらすじの説明も、「ウィルスが蔓延した世界でブラッド・ピットが家族と世界を救うために奔走する。」といった口調で、ゾンビのゾの字も出てきていません。

なぜ日本ではこうもゾンビはダメなのか。
中には土葬文化と火葬文化の違いから指摘している方もいましたが、映画としてはともかく、ゲームの世界ではゾンビが登場するものは数多く作られています。
「バイオハザード」はゲームとしても大ヒットし、ミラ・ジョヴォビッチ主演で映画化もされています。
また「デッド・ライジング」もロメロ版ゾンビに端を発するショッピング・モールを舞台としたゾンビ・パラダイス・アクションとして人気になっています。
ちなみに自分はこの「デッド・ライジング」というゲーム大好きでして、このためだけにXbox360買ったぐらいなので、今回の記事に時折脱線気味に「デッド・ライジング」ネタが飛び込んできますが、ご容赦下さい。m(_ _)m

ゾンビそのものが人気がないわけではないのですが、ジャンル映画として確立しているとは言いがたいのが現状です。
そして、日本で作られるゾンビ映画というと、2000年公開の北村龍平監督の「VERSUS -ヴァーサス-」が初期の作品になります。
これも純粋なゾンビ映画というよりはその立ち回りと映像センスの評価が先行していた記憶があります。
他には、「地獄甲子園」「東京ゾンビ」「Zアイランド」などマイナー映画としてミニシアター系の映画館で小規模で公開されているものがほとんどです。

このように日本映画界におけるゾンビはなんとも寂しいものなのですが、そこに差す一筋の光となったのが、海外ドラマ「ウォーキング・デッド」ですね。こちらは日本でも人気で続編も作られ続けており、これによりゾンビへの門戸が広く開放されたのではないでしょうか?

というわけで、ここからようやく本作、「アイアムアヒーロー」の話題です。

本作は日本を舞台にしているので、誰もが銃火器を持っているわけではありませんので、ゾンビ(本作ではZQN(ゾキュン)と呼ばれています)にどう立ち向かうのかという点と、そんな状況でパニックアクションとしてインパクトのあるものが作れるのか、という疑問があります。

しかし本作では日本が舞台であることを十二分に活かしているといえます。予告編にもありますが、「日常が、突如として終わりを告げる」これを何よりも体感できるようになっているのです。

英雄が初めて遭遇するZQNは自分の恋人てっこなのですが、彼女との遭遇シーンは原作でもそうだったのですがかなりの衝撃だと思います。
事態を把握していない英雄は、どう見ても変わり果てた異形の姿になっている彼女に対して、「具合悪いのー?」などとのん気に聞いてしまったりします。

次に英雄が向かうのは職場のアシスタントをしている漫画家の家です。そこでは先輩アシスタントの三谷(塚地武雅)がいますが、ここでの彼の静かな狂気は必見です。

外に出ると、そこはZQNで溢れかえっています。
しかし、まだその事実を把握していない人も多く、戸惑っている間にZQNに噛まれ、自分もZQNとなってしまう、そんなシーンがいたるところで繰り広げられているのを目の当たりにします。
このシーンは日本映画史に残るんじゃないかってぐらい見応えたっぷりです。まさに日常の終焉を感じられるシークエンスとなっています。
また、飛び乗ったタクシーの中でテレビを見て、「テレ東が普通にアニメをやっているからまだ大丈夫だ。」と安心するのも面白いです(これは原作にもあるシーンです)。だけど、その後・・・。

英雄は途中で一緒になった女子高生、比呂美とともにネットの掲示板に書かれていた噂を頼りに富士山を目指します。
その途中でたどり着いたのが、アウトレットモールでした。

マネキンが転がっている!
ショッピングカートがある!

と、「デッド・ライジング」ファンなら興奮せざるをえない絶好の舞台ですね。先に書いたロメロ版「ゾンビ」でもショッピング・モールが舞台ですから、本作もそれになぞらえているということになりますね。

そこにもZQNが押し寄せてくる(というか元からいた)のですが、そのピンチを助けてくれたのが、ヤブと呼ばれている女性(長澤まさみ)でした。
彼女の案内で、アウトレットモールで籠城している生存者のコミュニティーに連れて行ってもらいます。
このコミュニティーの描き方も、原作では支配者と被支配者という関係が色濃く出ていたのですが、映画版では、沈着冷静なリーダーがいて表向きは理想的な共同体のように描かれているのが印象的でした。
このリーダー井浦に扮するのが吉沢悠。童顔(しかもオーバーオールを着ている)で優しそうな雰囲気が役柄にマッチしています。

しかし、このコミュニティーに英雄がやってきたことで力関係が変わっていきます。
これまで井浦がリーダーになっていたのは、彼が持っていたボウガンが武器として最も強いからでした。
そこにショットガンを持った英雄がやってきたわけです。
マネキンとかバットが強いという設定でもない限り、英雄がコミュニティーをのっとってもおかしくないわけですが、ここは英雄の小市民的な性格もあってそうならないわけですね。

一方、比呂美は実は赤ちゃんZQNに噛まれていたせいで、半分ZQN化してしまいます。
最初はなんとかごまかしていた英雄とヤブだったのですが、そのことが井浦たちにバレてしまい・・・。

彼らはZQNの登ってこれない屋上で生活をしています。(そりゃダクトとか通れないしね!)
ですが、食料が尽きてしまい、ZQNだらけの食料庫へ行くミッションを計画するのですが、彼らの運命やいかに?

だいぶネタバレしてしまった感もありますが、映画化にあたって原作の良いところをうまく抽出して作っているという印象でした。
自分が原作読み始めた頃に映画化が決定したので、そこで一旦読むのをやめて、最近また読みなおしているのですが、原作の1巻~8巻あたりからエピソードを拾って映画としています。

以下、原作と映画の主な相違点について書いていきたいと思います。

1.英雄の妄想

原作では英雄は不眠症になるほどのホラーな妄想を見ています。しかし映画ではマンガで世界を変えてやるといった野望、遭遇したZQNをショットガンで始末するという妄想(実際には指を鳴らすだけ)、そしてZQNの集団と遭遇してパニックになった英雄が逃げこんだロッカーから外に出るシミュレーションです(このシーンはかなり面白い)。

2. 英雄の性格

これは概ね原作通りの部分もありますが、映画では原作以上に小心者なところが出ています。
半ZQN化した比呂美がZQNを瞬殺したのを目の当たりにして、「じゃ、失礼しまーす」とその場を立ち去ろうとしたかと思えば、次にZQNに襲われた時は、「比呂美ちゃん、出番ですよ~」と押し付けようとしたりもします。

3. てっこの設定、性格

原作ではダメダメな英雄にも優しくかいがいしいキャラになっていて、ZQN化しつつある自分が英雄を噛まないために自ら歯を抜いた(と英雄が推測していた)り、ZQN化した配達員が襲ってきた時に身を呈して守ったりしています。
対して映画版では、うだつのあがらない英雄に苛立ちを隠せず、英雄も部屋を追い出されてしまう始末です。

原作では、このやさしさゆえに、たとえ変わり果てた姿となっていようともてっこはてっこ、という印象を英雄が最後まで持ち続けていたり、抜け落ちた歯を大切に持っていたりする(途中でなくした描写もありますが)ところに感動します。

映画版が改悪というわけではなく、てっこの隣で音を立てないようにカップラーメンをすすったり、家から追い出された時も、「銃の携帯許可証だけ取ってくれない?あれないと逮捕されちゃうからー。」という英雄の性格を決定づけるシーンにつながっているので、これはこれでアリという気がします。

4. コミュニティーの描き方

原作では、表向きの支配者はサンゴで、裏の支配者が井浦ということになっていますが、映画では、井浦が最初から支配者となっています。ここにショットガンを持った英雄が加わることでその力関係が崩れることは同様ですが、映画のほうが関係性のもろさがわかりやすいです。
また、コミュニティーでの秩序を守るための種々の行為でZQN以上の残酷さを見せる人間という描き方をしているのは原作のほうで、映画はそのあたりも微妙にぼかしています。

5. ラストの英雄とヤブのやり取り

ヤブはアウトレットモールのコミュニティーで付けられたあだ名でした。由来は看護師なのにDQNになりつつある患者を救えずに逃げ出したから。このあたりからもアウトレットモールの面々の冷たさが伺い知れます。
本名はつぐみという名前で、原作では自虐的に「笑うなよ!」みたいに言いますが、映画では英雄が「それはまた随分と可愛らしい・・・」と言ってしまいます。
コレに対して英雄も本名を明かしますが、この部分も原作とは違っていて、これはぜひとも映画館で確かめて欲しいと思います。

日本で作られた映画とは思えないクオリティーということで話題になっていますが、これは制作にテレビ局が噛んでいないというのが大きいようです。
テレビ局が映画製作に乗り出す功罪は様々に言われていますが、バジェットを大きくすることができる、メディアミックスとして自局で大々的に宣伝できるなどといったメリットもある一方で、様々な制約が出てきてしまうのが現状のようです。
その点で、本作のような映画がヒットすれば、邦画界としての新たな道筋を示すことにもつながるのではないでしょうか。

とにかく日本で作られたゾンビ映画としては規格外の完成度を誇る作品ですが、うだつのあがらない主人公がヒーローになっていくという過程は、まさに日本映画ならではといった要素も含んでいて、唯一無二のゾンビ映画が誕生したと言っても過言ではありません。
ぜひ劇場で!

「レヴェナント:蘇えりし者」から考えるステレオタイプと偏見



正直このネタは前回の「ズートピア」の時に書こうかと考えていたのですが、「レヴェナント:蘇えりし者」にも共通する部分があるのでこちらでまとめます。

「ズートピア」では、ウサギ=か弱い、キツネ=ズル賢いという固定観念があります。
「レヴェナント:蘇えりし者」でも先住民=野蛮という固定観念が登場します。

このように人(ズートピアでは動物ですが・・・)が他者を判断するときに、その人が所属している集団や人種、階層、その人の性別や職業などから連想される典型的なイメージを利用しがちです。
この時の典型的なイメージのことをステレオタイプと呼びます。
Cohen(1981)は、ある女性のビデオを見せられ、その内容をどれぐらい覚えているかを、以下の2条件で比較しました。
 A. 女性の職業はウェイトレスと伝えられている。
 B. 女性の職業は司書と伝えられている。
その結果、A条件では、女性の性格を明るく活発であると認識し、ポップミュージックを聴いていた、ハンバーガーを食べていた、などの行動を記憶していました。一方、B条件では、女性の性格をおとなしくて真面目であると認識し、本棚にたくさんの本があった、メガネをかけていた、などの情報を記憶していたという結果になりました。

これは職業ステレオタイプによって女性の性格や行動スタイルなどを認知しているということを示しています。
このようなステレオタイプが形成され、利用されるのは、情報処理の効率性にあります。対人認知における認知的負荷を軽減することにより、多くの人を認識する上では有効になるのです。

しかし、ステレオタイプはあくまで所属集団や性別、職業から連想されるイメージなので、中にはそのイメージと一致しない人もいます。
全ての女性が優しく、料理が得意なわけではありません。
全ての黒人が粗暴で短絡的なわけではありません。
全てのウサギがか弱いわけでもないし、全てのキツネが嘘つきなわけでもありません。
このようにステレオタイプが一致しない例においてもステレオタイプ的な判断を当てはめてしまうことが差別や偏見につながってしまうのです。

「レヴェナント:蘇えりし者」の世界では西洋人と先住民の差別意識はあからさまに表現されていますが、現代において、あからさまに人種差別的な発言をする人は少なくなってきているでしょう(と思っていたのですが某次期アメリカ大統領候補な人もいますね・・・)。
その原因としては、人種差別問題が声高に叫ばれるようになり、それ以外にも男女平等やセクシャルマイノリティーに対する差別も問題されるなどの世相の変化があげられます。

しかし、Devine(1989)では、差別や偏見の意識が低い人でも、事前に何らかの手がかり(所属集団を特徴づける写真、情報など)があることでステレオタイプが活性化されることを示しています。とりわけマスメディアがこうした情報を報じることによって、ステレオタイプが強化されるとしています。

このような時代背景もあり、差別や偏見の意識を測定する方法として、「あなたは差別主義者ですか?」といった顕在的な質問ではなく、刺激に対する判断課題などを用いた潜在的な手法が用いられるようになってきています。

Lowery & Hardin(2001)では、、潜在的連合テストを用いて、ある特定の人物(例えば黒人)とある性格特性(例えば暴力的)との結びつきがどれぐらい強いかを測定し、その強度によって差別や偏見の意識がどれぐらい強いかを測定しています。
この実験においても、差別や偏見の意識に関係なくステレオタイプが自動的に活性化されていることが示されています。

このようにあからさまな差別的態度や行動は少なくなってきているかもしれませんが、ステレオタイプを過度に適用してしまうことが起こりうることが考えられます。
これらのステレオタイプ的な判断を少なくするためには、人種や階層、性別、職業といった肩書などを超えた個人としての理解が重要になります。
相手に対して関心を持ったり、またその相手が自分にとって重要な人物となる場合、ステレオタイプによる自動的な判断に頼るのではなく、より相手を理解しようという意識が高まり、その人個人の性格や行動パターン、スタイルなどに注意が向きます。

それでは相手の所属集団や人種、階層などではなく、相手の個人そのものに注意を向けさせるにはどうしたら良いのでしょうか?

Brown(1995)は、生徒たちに共同学習をさせることによって、相互依存的な状況が生まれ、結果として同じグループの相手に対する関心が高まり注意が向くようになることを示しています。

これは、「ズートピア」では差別とはいかないまでもお互いに先入観を持っていたジュディとニックが、2人で事件の解決に挑むことによって、種族を超えた個としての理解を深めていることからも十分にうなずけることですね。
相手をよく理解するために、また相手からよく理解されてもらうためには、何か協力して作業や課題にあたると良いのですね!

[引用]
Brown, R.(1995). Prejudice: Its Social Psychology. 橋口捷久・ 黒川 正流訳 偏見の社会心理学. 北大路書房.

Cohen, C. E.(1981). Person categories and social perception : Testing some boundaries of the processing effects of prior knowledge. Journal of Personality and Social Psychology,
40, 441─452.

Devine, P. G.(1989). Stereotypes and prejudice: Their automatic and controlled components. Journal of Personality and Social Psychology, 56, 5-18.

Lowery, B. S., Hardin, C. D., & Sinclair, S. (2001). Social influence effects on automatic racial prejudice. Journal of Personality and Social Psychology, 81, 842-855.

「レヴェナント:蘇えりし者」感想。


(公式HPより引用)

[story]
1823年、アメリカ。ベテランハンターのヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は、ポーニー族の女性との間にできた息子ホークとともに、ヘンリー隊長の率いる部隊で狩猟の旅をしていた。ある時、斥候を務めていたグラスは巨大なグリズリーに襲われ瀕死の重傷を負ってしまう。ヘンリー隊長は連れて行くのはムリだと判断し、ホークとフィッツジェラルド(トム・ハーディ)、ブリジャー( ウィル・ポールター)に、最後を看取ってから丁重に葬るよう指示をするのだが、息の根を止めようとするフィッツジェラルドから父を守ろうとしたホークは逆にフィッツジェラルドに殺されてしまう。グラスもそのまま生き埋めにされてしまうが、息を吹き返すが、目に入ったのはすでに冷たくなった息子ホークだった・・・。

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」のアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督による未開の大地を舞台に過酷なサバイバルと復讐劇。
本作でアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督は史上3人目となるアカデミー監督賞の2年連続受賞者となりました。
他にも、レオナルド・ディカプリオが悲願のアカデミー主演男優賞を受賞しています。

1800年台のアメリカと言えば、ヨーロッパ諸国が植民地化に乗り出し、先住民(いわゆるネイティブ・アメリカン)との争いが勃発している頃にあたります。

冒頭のレオナルド・ディカプリオ扮するヒュー・グラスの妻との思い出の回想シーンにはじまり、先住民とひとくくりにされているものの実は多くの種族がいてそれらが詳しい説明もなく登場するので、最初に整理したいと思います。

ポーニー族:
グラスの妻がポーニー族で、農耕生活を営んでいます。
瀕死の状態のグラスにバイソンの内臓を分けてくれる男もポーニー族です。

アリカラ族:
序盤にヘンリー、グラスらの部隊を問答無用で襲撃してくるのがアリカラ族。半農半狩猟生活をしています。
さらわれた酋長の娘ポワカを取り戻すため部隊を執拗に追いかけてくる。

スー族:
本作にはあまりでてきませんが、当時最大規模を誇っていた先住民。「ダンス・ウィズ・ウルブズ」に登場していたのがスー族ですね。一般的に想定されるネイティブ・アメリカンの典型でまさにアメリカインディアンのイメージに合致するのがこちらになります。狩猟生活をしています。
本作では、グラスを助けてくれたポーニー族の男の妻を殺したのがスー族だと語られるシーンがあります。

映画では直接的には描かれていませんが、これらの部族はお互いに対立しており、場合によっては白人の側について別の部族と戦ったりもしています。

西洋人勢力としては、

ヘンリーの部隊:
ヘンリー隊長のもと、グラス、その息子のホーク、グラスに憧れている若者ブリジャー、グラスに反感を持っているフィッツジェラルドなど。彼らはバッファローなどの動物の毛皮を売買目的で狩猟しています。

フランス人部隊:
ヨーロッパでの優勢を保つべく、アメリカの植民地を割譲したり、現地で入手した毛皮や鉱物を売買したりしていました。
本作では諸悪の根源で、ポワカを誘拐したのも彼らです。そのためにヘンリーの部隊はアリカラ族に狙われることになります。
途中でグラスを助けてくれたポーニー族の男もフランス人に殺され、「我々は皆野蛮人だ!」と書かれ死体を吊るされてしまいます。
映画では明確には描かれていなかったと思いますが、グラスの妻もフランス人に殺されたことになっていたのでしょうか。

と、実はこれだけの勢力が入り乱れていたというわけです。
見ているだけではなかなかわかりづらいのですが、それはどうやら当事者も同じで、西洋人からして見れば、どの部族だろうと野蛮な原住民であり、先住民側からすれば、西洋人は残忍で狡猾な侵略者なわけですから。

このあたりの緊張状態はグラスもよく理解しているようで、父親を慕いながらも血気盛んな若者であるホークが、差別主義者であるフィッツジェラルドに対して言い返そうとした時も、「目立つようなことはするんじゃない。お前が何を言おうとも、相手はお前の話なんて聞きやしない!」と強い口調で諌めるシーンがあります。厳しい言葉ですが、グラスなりに息子への処世術として伝えたのでしょうね。

フィッツジェラルドは、かつて先住民(何族かは不明)に頭の皮を剥がれそうになった(!)という経験があり、彼もまた死の淵から蘇った人間であることがわかります。
そのせいか生きることへの執着は誰よりも強く、グラスを置いていくことを提案するのも彼です。

設定の話だけでだいぶ長くなってしまいましたが、ストーリーの構成で言うと、先住民アリカラ族に襲われながらもなんとか逃げていくところが序盤、そしてクマに襲われて瀕死の状態から蘇り、息子を殺したフィッツジェラルドに復讐するために決死のサバイバルをするのが中盤、復讐のためにフィッツジェラルドを追いかけるのが終盤といった構成になっています。

見るものの目を惹くのが中盤のサバイバルの部分ですね。
熊に襲われた傷を塞ぐために自ら炎を当てたり壊死した部分に枯れ草を押し付けて痛みを緩和したりします。
そして、生魚でも生肉でもなんでも食べる!
もはや不死身なのでは?と疑ってしまうぐらいのグラスの姿は、まさに息子を殺した男への復讐、それにつきるわけです。

そして本作は信仰の映画でもあります。

グラスは自分も風前の灯の中、目の前で息子を殺されてしまいます。自身クマに襲われて全身が傷だらけでフィッツジェラルドに生き埋めにされなくとも死を意識したことでしょう。
しかし自分が死ななかったということは、神によって生かされているのだと解釈し、その生きる目的こそが息子の復讐になります。
道中、何度も死の危機に瀕し、そのたびに、その過酷な運命を呪うことになります。
朽ちた教会が何度も出てくるのはまさにそのメタファーでしょう。
最後の最後、本懐を遂げようとするグラスの決断は、利己的な判断や行動に走るのではなく(それではフィッツジェラルドと同じだから)、神の運命に委ねようとする決断に見えます(その後の神の審判の早さもそれはそれで・・・)。

フィッツジェラルドもまた彼なりの美学としての信仰を持っています。
彼がブリジャーに語った父親のエピソードで、父親が仲間を殺されてひとり荒野をさまよっていた時、神を見たと。その神はリスの形をしていて、父親はそれを食ったと。
彼の父親もまた神によって生かされたこととなり、このエピソードはフィッツジェラルドが銃を突きつけながら言ってくる「神は与えもするが、奪いもする」という旧約聖書の一節にも通じます。
だからこそ、死の淵から蘇り、今自分の命を猛然と狙おうとするグラスに向けて、「俺を殺したところで息子は蘇らない。そんなことのために命をムダにする気か?」と問いかけます。
神によって救われた命を再びムダにするのかと。

フィッツジェラルドは利己的な差別主義者ではありますが、彼なりの行動理念には理解できるものも多いです。
グラスを置いていくことを主張するのもいわゆる緊急避難として考えられない話ではないですし、ムリにグラスを連れて行く事で部隊全員が危険にさらされ、全滅することも十分に考えられました。もしグラスとフィッツジェラルドが逆の立場だったら、やはりグラスも同じことを考えたかもしれません。
アリカラ族から逃げるために自分たちの貴重な足である船を捨てるという選択をしていることからも伺えます。

この対照的なようでいて実は潜在的には共通点もありそうな2人の対決が映画のキモとなっています。
その姿を未開の雄大にして脅威な自然とともに描き切ったのは、「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」に続き撮影を担当したエマニュエル・ルベツキ。
すでに話題になっていましたが、自然光での撮影にこだわった結果、映画の撮影は1日のうち明け方と夕暮れ時の1時間ほどしかできなかったため、かなり長期に渡る撮影になったようです。

鬱蒼とした森林にところどころ差してくる太陽の光が希望とも絶望ともつかない雰囲気に写っているのが見て取れます。
圧巻は戦闘シーンで、360度どこから狙われているのかわからないようなありとあらゆる角度からアリカラ族の攻撃を受ける緊迫感、馬に乗りながら追われていくシーンの疾走感はそれだけでも映画館に行く価値ありです。

エマニュエル・ルベツキは、「ゼロ・グラビティ」「バードマン~」に続き、本作で3年連続のアカデミー撮影賞受賞という偉業を達成しましたが、それも十分にうなずける映像でした。

宗教、信仰心をモチーフに大自然での決死のサバイバルと究極の復讐譚を描き切った渾身の作品となっています。
ぜひ劇場でご鑑賞ください!

「ズートピア」から考える自己決定権と選択肢の影響



ズートピアでは、動物たちが進化し、肉食動物も草食動物も、捕食、非捕食の関係ではなくなり、共存している理想の社会とされています。
そのため、どんな動物だって何にでもなりたいものになれる、ということで、ウサギのジュディはウサギとしては初めての警察官になるわけですが、ジュディの両親は最初は危険な仕事なのではないかと危惧しています。
そして、ウサギはニンジンを育てているのが一番性に合っているのだと考えています。
ジュディは両親の心配は気になりつつも、自分らしさを求めてズートピアへと旅立っていくのですが・・・。

ズートピアは、zoo(動物園)とutopia(理想郷)の合成による造語ですが、そもそも動物園とは動物たちにとって理想郷なのでしょうか?

ズートピアのような世界でなければ、自然界は食物連鎖の関係性があり、どうしても捕食者、非捕食者と分かれてしまいます。
また自然環境によっては食料が十分に得られないということも考えられます。
一方、動物園ならば、少なくとも外敵に襲われる心配はありません。また食料も不自由することはありません。

Clubb et al.(2008)では、ヨーロッパの動物園で飼育されていた786頭のアジアゾウ、アフリカゾウの平均寿命について調査しました。その結果、アジアゾウは平均18.9歳で、これはミャンマーの木材運搬のための使役ゾウの平均寿命が41.7歳であることと比較してもかなり短くなっていることがわかります。
一方、アフリカゾウの平均は16.9歳で、これまた野生のアフリカゾウの平均寿命35.9歳と比較してもかなり短いです。
彼らは、その原因の多くは食生活や栄養は充足しているが、狭いオリの中で十分な運動ができずに肥満になってしまうなどの健康的要因と、動物園からの移動や親と離れ離れになってしまったりするといったストレス要因を挙げています。

自由にエサを食べ、自由に走り回り、自由に行動する、自由に選択することこそが、たとえ外敵や飢餓の恐れがあろうとも寿命を伸ばす結果につながっているとも言えます。
これは、自己決定権と呼ばれ、自分で自由に決められるということで自分の選択や行動に対する満足度が高まり、ストレスが軽減されることになります。
このことは動物だけでなく人間においても同様です。

堀(2012)では、たとえ好ましくない結果が生じようとも、強制的に選択させられるよりは自分で自由に選択できる方が好まれるということが示されています。
また、Iyenger & Lepper(1989)では、人から与えられた課題よりも自分で選んだ課題の方が熱心に遂行できるということが示されています。
やはり、強制的に何かを決められるよりは、結果がどうなろうとも自分で決めたり、行動したりすることは価値があると考えており、その責任も自分に帰属することで、満足度も高くなると言えるでしょう。

それでは選択肢は多ければ多いほど良いのでしょうか?
Iyenger(2010)では、スーパーの食品売場で以下の2つのジャムの試食コーナーを設置して比較しました。

A. 24種類のジャムのある売り場
B. 6種類のジャムのある売り場

結果、Aの売り場の方が多くの人が集まったが、購入したのはそのうちの3%に過ぎなかったのに対し、Bの売り場の方は、試食した人こそ少なかったものの、30%の人が購入しました。

これは選択肢が多すぎると自分では情報処理が十分にできなくなり、良い選択ができないと考えてしまったり、別のものにすれば良かったのではないかという後悔の度合いが増幅したり、また、たくさんのものの中から選択する行為をストレスと感じてしまったりすることが原因として考えられるようです。
一見すると選択肢は多いほうが良いように感じますが、その限度もやはり存在しているようですね。

適度な選択肢の中から適切な選択をしていくことこそが、人生をより良くしていくことに繋がるのかもしれません。

[引用]
Clubb, Ros, Rowcliffe, Marcus, Lee, Phyllis, Mar, Khyne, Moss, Cynthia, Mason, Georgia J.(2008). Compromised Survivorship in Zoo Elephants. Science, 322, 1649-1649.

堀祐子(2012). ヒトはなぜ選択を好むのか? ~自由選択場面への選好を中心に~. 人文論究, 62, 91-110.

Iyenger, S.(2010). The art of choosing. 櫻井祐子訳 選択の科学-コロンビア大学ビジネススクール特別講義-. 東京: 文藝春秋.

Iyenger, S. & Lepper, M.(1989). Rethinking the value of choice: A cultural perspective on intrinsic motivation. Journal of Personality and Social Psychology, 76, 349-366.

「ズートピア」感想。


(公式HPより引用)

[story]
肉食動物も草食動物も分け隔てなく共存している動物たちの楽園、「ズートピア」。ウサギのジュディは厳しい訓練を乗り越えて、ウサギとしては初の警察官になる。そんな折、ズートピアでは連続で行方不明事件が発生する。ジュディは、ひょんなことから知りあった詐欺師のキツネ、ニックとともに事件の捜査に乗り出すのだが・・・。

ディズニーの新作は、動物たちの世界で起こる事件と騒動を描いた作品です。監督は「塔の上のラプンツェル」のバイロン・ハワードと「シュガー・ラッシュ」のリッチ・ムーア。

IFの世界観で描かれるのはアニメの世界でも多いけれど、本作は肉食動物と草食動物が捕食、被捕食の関係性になかったら、という前提で世界が構成されています。

動物たちは人間のように言葉を話し、2本足で歩いたり、音楽を聞いたり、仕事をしたりしています。
この独特の世界について、本作では冒頭の数分で説明をしきっています。それも、幼いころのジュディたちの劇で!

「カールじいさんの空飛ぶ家」でもカールじいさんがおばあさんと出会ってから一人になって冒険の旅に出ようとするまでをダイジェスト的に説明する冒頭があったり、「シュガー・ラッシュ」でもカルホーン軍曹の過去のエピソードを描いたりしていましたが、いずれも映画のテンポを乱すことなく挿入していたという点で共通しています。

そんなこんなで、肉食動物も草食動物も一緒に、平等に暮らしている理想郷ズートピアへとやってきたジュディは早くも挫折することになります。
警察学校ではトップの成績を収めたにも関わらず、重要な捜査を担当するのは、サイやバッファローといった、ガタイの良い屈強な動物たちで、ジュディは駐車違反の取り締まりをやらされます。

この構図からまさに本作の根底にある動物たちの関係性をうかがい知ることができます。
たとえ食物連鎖の関係性がなくなったとしても、やはり頑然とした体格の差、力の差というものが影響してきます。

ジュディも警察の入口でカワイイ!と見た目で判断されるのを嫌がっていたのもそうですが、差別をするわけではないけど、現実的にはウサギに警察官は厳しい、という考えが伝わってきます。

同じ世界に共存はしていますが、ネズミの住む場所が決まっていたりと、キャラクターの違い、体のサイズの違いによって必然的な区別がつけられていることになります。

このギャップを巧みに利用するのが詐欺師のニックです。
彼はそのサイズの違いでうまく金儲けができると気がつき、相棒とともにアイスの転売をします。
この相棒も見た目と中身のギャップがすごいですね・・・。

アイスの転売でなんで儲けられるのかはぜひ本編を見て確認して欲しいと思います。
したたかに生きるニックですが、彼もまた「キツネであること」のステレオタイプに苦しめられてもいました。
キツネ=ずる賢い、人を騙す、というイメージが根強く定着しているんですね。
他にも免許センターで働いているナマケモノが出てきますが、これもなんともキャラクターらしい存在になっています。

ひょんなことがきっかけでジュディとニックは連続行方不明事件の捜査をすることになるのですが、この2人のバディものとしても見ていて痛快なところがあります。
夢見がちだったジュディに現実を教えるニックという構図なのですが、案外ジュディもニックを手玉に取っているようなところもあるし、勇敢なジュディに対して触らぬ神に祟りなしなニックといった部分もあります。

やがてこの行方不明事件の全貌が明らかになっていくのですが、このあたりの展開はミステリーとしてもそれなりに完成度が高いものになっています。
大人が見ても十分に楽しめるどころか、大人にも改めて差別や偏見について考え直させてくれるような作品に仕上がっています。

もちろんこれまで同様の細部へのこだわりもたくさんあります。
ジュディの使っているiPhoneのロゴだったり、仕事で使っているニンジンボールペンだったり!
これはグッズ化待ったなし!と思っていたら、本当に発売しているようで・・・。

そしてさらに、映画のパロディーもあります。
中盤に登場するズートピアの影の支配者、Mr.ビッグですが、このキャラクター、設定、登場シーンは「ゴッド・ファーザー」まんまです!マーロン・ブランドです!
そういうコアな映画ネタも含まれているのが魅力ですね。

最後の最後のネタも含めてとことん魅力の詰まった宝箱のような映画でした。
オススメです!

「ドクムシ」から考えるサンクコスト効果



人の意思決定に影響を与えるものとして、サンクコスト効果と呼ばれるものがあります。
サンクコストとは、すでに先行投資として発生してしまっているお金や労力、時間などを指し、それらが回収不能なものであった場合、その投資に関わる選択や行動を重要視したり、さらなる投資をしたりする傾向があります。

例えば、以下のような2つの条件においてその後の行動に違いがあるかを考えます。

A:バスケットボールの試合のチケットを40ドルで購入した。
B:バスケットボールの試合の招待券をタダでもらった。

しかし、バスケットボールの試合の日は大嵐で会場に行けるかどうかもあやしい状況だとした場合、AとBどちらの条件の方が試合を見に行くでしょうか?

結果はAの条件の方が、ムリをしてでも試合に行くという選択をする割合が高くなります。
自分で購入しようがチケットをもらおうが、チケットそのものの価値は(同じ試合を見れるという点では)同じですが、自分でチケット代を払った場合、これがサンクコストとなってその後の選択や行動に影響を与えているということになります。

これはコンコルド効果とも呼ばれています。
コンコルドと呼ばれる超音速ジェット機をイギリスとフランスで共同開発をしたのですが、定員の少なさ、燃費の悪さなどから開発に成功したとしても採算がとれないことが計画段階で明らかになってきたのにもかかわらず、そのプロジェクトを中止することができず、最終的に開発に携わった会社は倒産することになってしまいました。
これも、開発の段階ですでに先行投資をしてしまっているため、途中で中止したら投資した分が無駄になってしまうことを恐れたことが原因と言われています。

Arkes & Blumer(1985)は、いくつかの実験において、金銭、時間、労力を一端投資してしまうと、その投資した事柄に関する行動や選択をする傾向が高くなることを示しています。

このことは日常の多くの場面でも当てはまります。
例えば、ギャンブルで負けがこんでしまうと、それがサンクコストと捉えられ、途中でやめてしまったら明らかなマイナスとなってしまうため勝つまでやめられなくなってしまいます。

株式や為替の投資でも同じことが言えます。
自分が保有している株が値下がりしても、その時点で売ってしまうと確実な損失となってしまうために、再び値上がりするのを待ちすぎた結果、売りどきを失ってしまいます。

またサンクコスト効果は評価を歪める事にもなります。
人気のラーメン屋に行ったら行列ができていて、そこで長時間待ってようやくラーメンにありつけた、となるとその時間や労力がサンクコストとなって、これだけ苦労して食べたラーメンだから美味しいに決まっている、と思い込んでしまいます。

Arkes & Ayton(1999)は、サンクコスト効果は大人に特有であり、子どもに同様の状況を呈示しても発生しないということを示しています。
その理由として、大人はムダなものに投資した、いたずらにお金や時間を浪費したと周りの人に思われたくないという願望があるからだとしています。

わかっていてもとらわれないようにするのはなかなか難しい現象ですが、ドツボにはまらないように気をつけたいですね。

で、「ドクムシ」と何の関係があるのかという話ですが、お金や時間をかけてわざわざ見に行った映画なんだから、なにかしらの価値を見出したいと思ってしまっていないか、という戒めですね。
でもまあブログ記事にできるぐらいには意味があったので良しとしましょう。

[引用]
Arkes, H. R., & Blumer, C. (1985). The psychology of sunk cost.
Organizational Behavior & Human Decision Processes, 35, 124-140.

Arkes, H. R. & Ayton, P.(1999). The sunk cost and Concorde effects: Are humans less rational than lower animals? Psychological Bulletin (The American Psychological Association), 125 (5), 591-600.

「ドクムシ」感想。


(公式HPより引用)

[story]
大学生のレイジが目を覚ますと、学校の教室のような場所にいた。ほどなく同じようにいつの間にかこの場所にいた6人の男女と出会う。出口も食料もみつからない中、ユキトシが、これは"蠱毒"というデスゲームで生きて出られるのはたったひとりだけだと言い出すが・・・。

合田蛍冬の同名コミックを実写映画化したのが本作ですが、原作未見だったのですが、ソリッド・シチュエーションものは「SAW」や「CUBE」など傑作も多いので、公開期間の短い中、なんとか見に行ったわけですが・・・。

正直、ソリッド・シチュエーションでここまで面白く無いのは初めて見ました。

というわけで、ネタバレ全開でストーリーを追ってみたいと思います。


↓↓↓ネタバレ注意!↓↓↓

レイジが気がつくと、教室らしき場所にいます。
どうやってそこに来たかの記憶は全くありませんでした。

ほどなくして、同じように教室で目が覚めた6人と出会います。

レイジと同じく大学生のユミ。
会社員でリーダー的存在となるユキトシ。
キャバクラ嬢のアカネ。
肥満でオタクキャラのタイチ。
粗暴でキレやすい男、トシオ。
そして謎の少女、ミチカ。

彼らは、学校内を探索し、出口はどこにもないこと、食料もどこにもなく、トイレの水道だけかろうじて使えることを把握します。

異様なのは、まるで誰かが常にチェックしているかのような監視カメラが有ること、そして7日間の時間をカウントダウンしているタイマーがあること。
そして特別教室には巨大な寸胴鍋と肉切り包丁が置いてあります。

ユキトシは、これが「蠱毒」というゲームなのだと主張します。
蠱毒とは、毒の持つ虫たちを1つのツボに入れると、お互いに殺し合い、最後に生き残った虫を呪術の媒体として用いるというのが語源ですが、そこから転じて、集められたメンバーで殺し合いをし、最後に生き残ったもののみが外に出られるデスゲームなのだと。

最初は半信半疑の面々で、特に殺し合いもなく2,3日経過します。

ある夜、ユミがトシオに襲われます。
コトが終わって、逆上したユミは、背後からトシオに襲いかかります!
ブラで!
もつれあう二人ですが、トシオは階段から落ち、死亡!

ユミに優しく接するアカネでしたが、ユミはレズビアンでしかも過去に好きだった女の先輩に嫌われたことが原因で潔癖症みたいになっています。

アカネはレイジに「自分には病気の弟がいて何としても脱出しなければならない」と言い、そのまま体を預けます。
このことを知ったユミは逆上し、レイジに詰め寄りますが、その途中で階段から落ち、死亡!

一方、タイチはミチカに迫りますが、すんでのところでレイジに助けられます。
お腹が空きすぎておかしくなったタイチは、トシオとユミの死体をバラして煮込んで食べています。
それを目撃したアカネもタイチに襲われますが、逆に返り討ちにします。

全てを見ていたというユキトシは、ユミを突き落としたのはミチカだと言います。
迫ってくるミチカをレイジが振り払おうとしたとき、ミチカのかつらがずり落ちます。
実はミチカは病気で見た目は少女だけど実年齢はずっと上なのだという告白をして、「キモいよねえ」みたいな自虐的なつぶやきをして自殺します。

残り3人となった時点で、レイジはアカネがユキトシにも色仕掛していたことを知ってしまいます。
そのことをネタにレイジとアカネの仲を裂こうとするユキトシでしたが、レイジに返り討ちにあい、ユキトシはトイレに縛り付けられていまいます。

誰も信じられなくなったレイジはトイレに引きこもります。
アカネはユキトシになんとか脱出する方法はないのか訪ね、縛られていたヒモを解いてしまいます。
ユキトシはハンデとしてアカネに包丁をわたしますが、アカネは返り討ちにあってしまいます。

最後に対峙することとなったレイジとユキトシ。
からくもユキトシを倒し、最後の1人となったのはレイジでした。
しかし、ゲームが終わる気配がありません。

しばらくして、閉ざされていたシャッターが開きます。
そして救助隊らしき人たちの姿が見えます。
彼らは特別教室の奥で、血まみれになっていたレイジを発見します。

レイジたち7人が教室に運ばれてきたのは、実は巨大な地震があったからだということがわかります(えっ?)。
その地震で気を失っていた彼ら7人を、やがてシェルターとして利用される予定になっていた学校に搬入したが、そこでまた地震が起きたため、入口が閉ざされてしまったのだと(えっ?)。
まだ施工途中で、とりあえず料理だけできるように寸胴と包丁だけ最初に設置してあったのだと(えっ?)。

病院に入院しているレイジは事実に呆然としながらも、出されたスパゲティーミートソースを手づかみでわしわしと食べだす。


という、なんとも説明しがたい映画でした。
原作もグロ&エロの要素が強いようですが、映画ではその設定はともかくビジュアル的にはどちらも中途半端なものでしかありませんでした。
むしろメインヒロインがユミだと思ってたので、衝撃ではありましたけどね。

7人が閉じ込められた理由とか、ミチカの正体とか、原作ではそれなりの説明が付いているようですが、映画では全く語られません。
ミチカの正体は明かされますが、だからどうした?という状況のままストーリーからフェードアウトしていきます。

また、極限状態感もほとんど出ていません。
タイチぐらいですかね?わかりやすいのは。
レイジにいたってはヒゲも伸びませんし。

ラストは映画オリジナルのようですが、実は「蠱毒」ではなかったという展開にしたかったんだろうなとは思うのですが、超展開な上に、ひどく些末な説明に終始してしまうのが残念でした。
伏線が特にあったわけでもないですし。

なんとなく公開期間が短いのもうなずける作品でした。
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Author:すぷーとにく0107
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中の人は、北海道は札幌市在住です。
映画館で年間200本は映画を観ます。
当ブログでは、映画のレビューをしつつ、勉強している心理学ネタでも書いていけたらいいなと思っています。

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