「君の名は。」感想。


(公式HPより引用)

[story]
千年ぶりとなる彗星の来訪を間近に控えた日本。山奥の田舎町に住む女子高生・三葉(上白石萌音)は、家系の神社の慣習や代わり映えしない毎日にうんざりしていた。都会への憧れを強く持っていた彼女は、ある日、自分が見知らぬ男の子になる夢を見る。その男の子は自分の夢見ていた東京で暮らす高校生で、念願の東京ぐらしを満喫する。一方、瀧(神木隆之介)も、自分が山奥の見たこともない女子高生に成り代わっている夢を見るのだが、やがて2人は夢の中で入れ替わっていることに気がついて・・・。

「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」の新海誠監督が、夢の中で入れ替わる少年と少女を主人公に贈る青春SFファンタジー。
キャラクターデザインに「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」などの田中将賀、作画に「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」などの安藤雅司と、現在の日本アニメーション界を担うスタッフが総結集しています。

記事をアップするのがだいぶ遅くなってしまったので、もうすでに爆発的ヒットを遂げているのは周知の通りです。
(これ書いている頃にちょうど興行収入100億円突破のニュースが流れていました)。

本作の予告編はかなり前から映画館では流れていましたが、主題歌にもなっているRADWIMPSの「前前前世」とともに、2人の少年少女が夢の中で入れ替わっていること、そしていつしか相手のことが気になってくること、なぜかそれを忘れてしまいそうになることが、新海ワールド全開のビジュアルとともに伝わってくるもので、コレを見た誰もが映画を見たくなるんじゃないでしょうか?

また、先のRADWIMPSが主題歌だけでなく映画全体の音楽も担当ということで、映画にマッチした楽曲に惹きつけられてRADWIMPSファンも多くが足を運んでいることでしょう。

しかし、ヒットの要因はなんといっても作品の出来そのものにあるのではないでしょうか?

とはいえ、本作はスケールやバジェットこそ大きくなっているとは思いますが、実はこれまで新海誠監督が描いたきたテーマに沿うものでもあります。
それは、「出会い」「別れ」そして「忘却」です。

「出会い」については、初期の作品は元々幼馴染だったり親友だったりしていますが、「星を追う子ども」では、アスナが地下の世界から来たというシュンと出会うところから物語が始まりますし、「言の葉の庭」では、公園でタカオとユキノが出会います。そして本作では、お互いが入れ替わりのため直接出会うのはだいぶ先のこととなりますが、夢を通じてお互いの世界を行き来しているという関係性になっています。

「別れ」は、新海作品に一貫して見られることで、「ほしのこえ」では地球と宇宙と離れ離れになりますし、「雲のむこう、約束の場所」では南北に分断された日本で、それぞれ北と南に別れてしまいます。
「星を追う子ども」でもシュンはとうとつに姿を消してしまいますが、それは本作でもある日を境に2人の入れ替わりが起こらなくなったところに通じています。

そして、「忘却」ですが、離れ離れになってみて初めて相手の存在の大きさに気がつくというのが過去の作品とも通じていて、それも圧倒的な距離の前にいつしか過去のものとなっていくところを、とあるきっかけで思い出す、いや忘れないでいる、という気持ちを持つようになっていきます。

こうした共通した設定とともに、新海作品の世界観を示しているのが、詩的なまでに美しい風景描写です。
「雲のむこう、約束の場所」の飛行機の格納庫や巨大な塔、「秒速5センチメートル」の季節感のある風景、そして「言の葉の庭」の雨の風景。
本作では、三葉の住む山奥の田舎(飛騨地方がモデルみたいですね)と、東京がそれぞれ映し出されるのですが、印象的なのが三葉の目線で見た東京です。瀧からすれば日常のありふれた風景でも、三葉にはことごとく新鮮で輝いて見える、そんな描写のように感じました。
一方の三葉の暮らす町も日本の地方の原風景という雰囲気が非常によく出ています。

以上は、本作が新海誠監督の作品の流れを汲むものである要因でしたが、過去作品と比べて決定的に違う部分もあります。
それは物語の展開や演出のスピード感です。
これまでの作品はモノローグで説明しつつも時間がゆったりと流れている印象があり、登場人物たちもそれほど自分の心情を語ったりはしていませんでした。それが本作ではモノローグではなく展開の早さで物事を説明していきます。
特に2人が入れ替わっていることに気がついてから、それぞれのギクシャクとした生活をまるでダイジェストのように見せるシーンは素晴らしいものがあります。ここでちょうど流れる主題歌の「前前前世」もあいまって、圧倒的な疾走感を保っています。
このシーンを見ただけでも、本作の評価が高まることは請け合いです。

2人は入れ替わることで生じる問題のためにいくつかのルールを作ります。
お風呂は入らないことや、お互いの人間関係に干渉しないこと、そして、それぞれお互いに起こったことを報告し合うことなどがそれです。
ここで携帯の日記アプリにそれぞれ記録するっていうのがなんとも現代的ですね。

それぞれお互いの生活を行き来することが続くのですが、瀧に成り代わった三葉は、瀧が憧れているバイトの奥寺先輩(長澤まさみ)と良い雰囲気を作ったり、三葉に成り代わった瀧は、学校の後輩(女子)からラブレターをもらったりしています。

この入れ替わり、とりわけ性別が変わっていることについての描写が数多くあります。
究極的にして根本的なのはトイレで用を足すときで、とくに三葉はどうして良いかわからない感じでしたね(^_^;)。
瀧が奥寺先輩に気に入られるきっかけになったのは、(中身が三葉になっているときの)女性らしい気配りです。

瀧も三葉になっているとき、悪いとは思っているのかもしれませんが、その、おっぱいを、こう、モミっとね・・・しちゃうんですよね・・・しちゃうよね。
予告編でも流れているバスケットボールのシーンでは、その、おっぱいが、こう、プルンとね・・・これは三葉になっている瀧がうまくブラジャーをつけられなかったっていう描写ですよね。
補足ですが、原作にはこのあたりの描写にかなりページを割いているらしく、これはそちらもチェックせねば!(鼻息)

ただ一番の女性らしさ、男性らしさが出て来るシーンは、三葉の髪を結っていた紐と髪型ですね。
この紐は瀧と三葉をつなぎとめる1つの重要なアイテムなのですが、それと同時に三葉の恋心をも表しているものです。
三葉にとっては気持ちそのものであり、瀧からすれば、覚えていないけど大切なものなのですから。
紐をなくした後で、三葉はショートカットになっていますが、これについても瀧は、「やっぱり前のほうが良かった?」みたいな軽い感じでクラスメイトに聞いてしまっています。このあたりもまさに男女差でしょうね。

とまあ、ここぐらいまでの話は予告編のイメージ通りかと思いますが、後半にかけて本作の雰囲気はがらっと変わっていきます。
このあたりを全く匂わせずに予告編が作られていることには、感動を覚えました。

ある日を境に、2人の入れ替わりはぱたっと起こらなくなってしまいます。
瀧は、不思議な体験だったと思い込みしばらくは忘れているのですが、どうしても三葉に会ってみたい、三葉を探したいと、自分の(三葉として)見た記憶の風景を元に、その場所を探しに行くのです。

ここから先の展開はぜひ映画を見て確かめて下さい。

以下、おそらくは本作にそれほど心動かされていない人の意見でなるほどなと思ったものもいくつかありましたので、それに対するエクスキューズを書いてみたいと思います。


1. さすがに気づくでしょ?

本作の批判で多いとしたら、コレですね。
見ていない人は何のことか分からないかもしれませんが、瀧と三葉の世界の違和感について、2人がまるで気がつかないのはおかしいだろうというものです。
強引に言い訳をすれば、2人とも夢の中での出来事だと思いこんでいるので、細かいことに注意が向かない、あるいは向いていても目覚めると忘れてしまうといったところでしょうか。
さすがに強引だと思った方は、黄昏時の奇跡だと思って、納得していただければ幸いですね。
そのあたりを気にするリアリストの方には向かない映画かもしれません。

2. RADWIMPSを使いすぎじゃない?

主題曲ともなっている「前前前世」はじめ描き下ろし4曲に加え、映画のスコアも担当しているので、流れている音楽は全部RADWIMPSです。
特に、歌モノはほぼほぼフルコーラスで流れているので、RADWIMPSが嫌いな人にはきついかもしれません。
ただ、全体のテンポも良いですし、映画の製作段階からイメージを共有していたこともあって、映画の世界観にそぐわないものではないと思います。
特に先述した2人の入れ替わりのシーンでの「前前前世」は特筆すべき完成度です。
新海監督はRADWIMPSを元々好きだったらしく、それを聞いたプロデューサーの川村元気がRADWIMPSに直接連絡をとって実現したとのことです。
この関係は極めて相補的だったのではないでしょうか?

3. ラストはどうよ?

ラストシーンもまた賛否両論ありそうですが、自分は「バタフライ・エフェクト」大好きなので、あのまますれ違って欲しかったという気もします。
新海監督が考えていた当初のラストはそうだったみたいです。
結果的にはすれ違わないラストになっていますが、もし当初のプランのバージョンがあるのなら、それも見てみたい!
このあたり、ネタバレせずに書くのが難しいですね・・・。


自分は↑の3以外は、特に不満点とも思っていませんでした。
1は気になるっちゃ気になるけど。
そういった不満点や矛盾点を補って余りあるほどの圧倒的な魅力とパワーを持った作品だと思いました。

今夏の最大ヒットとなっている本作なので、すでに見た方も多いと思いますが、もしまだの方がいましたら、ぜひ劇場でご鑑賞を!(^O^)/
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「ルドルフとイッパイアッテナ」から考える猫の帰巣本能



「ルドルフとイッパイアッテナ」では、ルドルフが長距離トラックの荷台に乗ってしまい、そのまま家から遠く離れた東京に来てしまうのですが、本作のルドルフにかぎらず、飼い猫や飼い犬が外に出ていっていなくなってしまうということはたくさんあります。

そんな時、迷子になってしまった犬や猫は家に帰ってくることができるのでしょうか?海外のニュースなどで、迷子になってしまった犬や猫が何100kmもの距離が離れていたにも関わらず帰ってきたということが取り上げられていたりします。

動物が生まれながらにして持っている生得的な帰巣性のことを帰巣本能と言います。
これには生まれながらにして持っている方向感覚が優れているという説もあれば、嗅覚で自分のいた場所を追跡することができるという説もあります。

Herrick(1922)では、子猫を産んだばかりの母猫を、車で数km離れたところに連れていき、そこから家の戻ってこられるかを実験しました。
その結果、8回中7回は家に戻ってこれたとのことです。
戻ってこられた7回は設定距離が家から1.6~7.4kmで、唯一戻ってこられなかった8回目は、家からの距離が26.5kmと、かなり離れた場合でした。
また、8回の実験中4回は、離した途端に家の方角に向かって歩き出したそうです。
母猫を実験に使っているのは、産んだばかりの子どもの元へ戻りたいという欲求が働くと予想されたからで、まさにその通りの結果になっているのだから驚きです。

Precht & Lindenlaub(1954)では、猫を自宅から離れたところに設置した迷路に入れ、どの出口から出るかを観察したところ、迷路が自宅から5km以内の場所にあるときは、60%の確率で家の方向を向いている出口から出てきたという結果になりました。
また自宅と迷路を往復した経験のある猫ほど成績がよく、反対に、実験室で育てられた若い猫では成績が悪くなったそうです。
つまりは、猫も明確な方向感覚を有しており、かつ経験によって帰巣行動が変わってくるとも言えるようです。

「ルドルフとイッパイアッテナ」では、東京から岐阜という長距離移動を実現しているのですから、やはりタダモノではないようですね。

ただし、迷子になって保健所に収容されてしまった猫が飼い主のもとへ戻される割合は、犬よりもずっと低くなっています。
猫の帰巣本能に頼らずに、飼い主がしっかりと責任を持つことが重要ですね。

[引用]
Herrick, F. H.(1922). Homing Powers of the Cat. The Scientific Monthly, 14, 525-539.

Precht, H. & Lindenlaub., E.(1954). Uber das Heimfindevermogen von Saugetieren. I. Versuche an Katzen. Z. Tierpsychologie, 11, 485.

「ルドルフとイッパイアッテナ」感想。


(公式HPより引用)

[story]
エリちゃんの飼い猫として幸せに暮らしていた黒猫のルドルフ(井上真央)。ある日、トラックの荷台に乗って運ばれてしまい、家から遠く離れた東京に来てしまう。途方にくれていたルドルフの前に町の野良猫のボス・イッパイアッテナ(鈴木亮平)が現れる。ルドルフはイッパイアッテナに野良猫として生きるすべを教えてもらうのだが・・・。

斉藤洋の児童文学、絵本をフルCGアニメで映画化したのが本作です。
監督は「ポケモン」シリーズの湯山邦彦と、「ファイナルファンタジー」のCGディレクターだった榊原幹典。

原作の絵本、NHK教育テレビでアニメ化されていたものも未見の状態でしたが、黒猫が主役と聞いて居ても立ってもいられずに見に行きました(ΦωΦ)。

家猫として何不自由なく暮らしていたルドルフが、家から遠く離れた場所にいってしまい戻れなくなる、っていう大まかな設定自体は同時期に上映されている「ペット」と似ています(「ペット」の感想はこちら)。
ただ、本作のほうが(結果的には)かなり長期間に渡って野良生活をすることになるというのが大きな違いですね。

見知らぬ場所というだけでなく、野良になること自体初めてのルドルフですが、その地域のボス猫、イッパイアッテナと出会い、成長していきます。
イッパイアッテナは、野良猫の生きるすべとして、エサをもらえる場所をルドルフに教えてくれます。
給食センター、魚屋さん、近所のおばあちゃんの家など回っていく先々で、イッパイアッテナはデカ、ボス、トラなどいろんな名前で呼ばれています。
ルドルフに名前を聞かれた時、「オレの名前はいっぱいあってな・・・」と言ったのをルドルフが勘違いして、イッパイアッテナだと思いこんでいるのでした。

イッパイアッテナはルドルフに野良として行きていく上では人間の言葉が理解できた方が良いと、その勉強の仕方も教えてくれます。
このことが、やがてルドルフがイッパイアッテナのピンチを救うことにもつながっていくのは素敵でした。

このようにルドルフに様々なことを教え込むイッパイアッテナですが、本作の魅力の1つは、彼の名言がどれも心に突き刺さるものであるということですね。

ルドルフが自分の家の住所もわからず帰れないということに絶望していると、

「絶望は愚か者の答えだ」

と言います。
これは、イギリスの政治家ベンジャミン・ディズレーリの言葉、「絶望とは愚者の結論である。」の引用だと思いますが、このあたりでもイッパイアッテナの博識の高さがうかがえます。

また、ルドルフが通りがかりの人に、「黒猫なんて不吉ね。」と言われたことに対し、

「黒猫が縁起悪いなんて迷信さ。そんなことを信じているのは教養のない証拠さ。」

と励まします。
教養を身につけることの大切さは、イッパイアッテナがかつての飼い主からも言われていたことで、それを今ルドルフにも伝えようとしているのが分かるセリフです。

ルドルフが、ブッチから聞いたイッパイアッテナが野良犬を撃退したときの決めセリフ「今度このへんをうろついていたら、耳ちょん切って頭ツルンツルンにしてやる!」を真似して言うところで、

「ことばを乱暴にしたり下品にしたりするとな、自然に心も乱暴になったり下品になったりしてしまうんだ。」

と諌めます。
ただ注意するだけでなく、その影響が自分のせいであることもしっかりと謝った上で言うので非常に説得力がありますね。

ルドルフはイッパイアッテナと行動をともにすることで成長していく姿を描いていますが、イッパイアッテナやブッチという友だちもでき、野良猫として立派になっていく一方で、飼い主のエリちゃんの元に戻りたいという気持ちもあるという複雑な心境になっていきます。

果たしてルドルフの運命はどうなるのか?
という展開になるのですが、以下、ラストのネタバレとともに不満に残る点を書きたいと思います。


ルドルフはイッパイアッテナのピンチを救った後、トラックのナンバープレートを読んで、エリちゃんの家のある岐阜へと向かいます。
ようやくたどり着いたところ、なんと!
エリちゃんの家では新しい黒猫を飼っていて、ルドルフという同じ名前をつけていました。
この黒猫はルドルフの弟で、ルドルフが見つからなくなって代わりにもらい受けたようです。

ルドルフ(元々の)は、自分が出ていったベランダの窓を開けて再び室内に入るのですが、ちょっと待って!
飼い猫がいなくなってしまった悲しみを感じているなら窓を開けっ放しになんてしないはず。
入る場所を探しているうちに、新ルドルフの事実を知ってしまうとかにすれば良かったのに、エリちゃん(とその親)の無神経さを疑ってしまう形になってしまいました。

もちろん原作は未見なので、このあたりが原作通りの可能性もあるのですが、猫飼いとしてはちょっと納得のいかない流れでした。

また、ルドルフが帰ってきた頃、エリちゃんはソファーで寝ているのですが、この時に間違ってルドルフを新ルドルフと思って抱きしめます。
そのときに、エリちゃんの家では猫を1匹しか飼えないということを知り、新ルドルフのためにもルドルフが身を引くという流れになるのですが、結局エリちゃんはルドルフのことを認識しないままです。
それもなんだかかわいそうな気がしました。
新ルドルフを飼うのはともかくとして、元ルドルフを必死に探した形跡とかが感じられるともっと良かったんですけどね(エリちゃんの日記があるとか)。

とまあ、ちょっと猫好きとしては気になる点があるのですが、イッパイアッテナの教訓は子どものみならず大人でもためになりますので、ぜひ親子でご鑑賞を!(^O^)/

「シング・ストリート 未来へうた」 から考えるバンドマンはなぜモテるのか?



「シング・ストリート 未来へうた」 では、主人公が一目惚れした女性にアタックするために、咄嗟に「自分のバンドのMVに出てくれない?」と声をかけたところから始まり、バンドを結成するに至るのですが、このあたりの不純とも言える動機は、ロックキッズたち、それを経験した大人たちならば分かるとことは多いのではないでしょうか?

本作でも、コナーはメンバーを募集する際にも「バンドやったら女の子にモテるぞ!」と言って勧誘をしています。

それでは、なぜ、バンドをやると女の子にモテるのでしょうか?

Haselton & Miller(2006)は、女性を対象に、クリエイティブだがお金のない人物と、クリエイティブではないがお金のある人物それぞれについて、職業がアーティストの場合とビジネス版の場合、さらに、短い間の関係(数回のデートやワンナイトラブ)、長い間の関係(長期間の交際や結婚の相手)として魅力的かどうかを調査しました。

その結果、アーティストとの短期的な関係をのぞく3つの条件では、クリエイティブだがお金のない方が魅力的だという結果になりました。
アーティストとの短期的な関係においてのみ、両者に差がないという結果になりました。

当初の予想では、短期的な関係ならばクリエイティブな人物が好まれ、長期的ならば経済力の方を重視されると思われていたのですが、実際にはクリエイティブな人物のほうが高評価でした。
この結果の解釈としては、現在の経済的環境や子どもの養育に関わる要因よりも、クリエイティブな人物のほうが遺伝的に優れており、それが子どもにも伝わるのではないかと筆者らは記述しています。

単に夢を追っている人に対する憧れだけでなく、そういった背景もあるようですね。

別にアーティストではなくとも、創造力のある人物は話が面白かったりユーモアに溢れたりしている場合もありますしね。

自分もこれからバンドを・・・はちょっと難しいので、創造力はしっかり鍛えていこうと思います!


[引用]
Haselton, M. G. & Miller, G. F.(2006). Human Nature, 17, 50–73.

「シング・ストリート 未来へのうた」感想。


(公式HPより引用)

[story]
1985年ダブリン、14歳のコナーは人生のドン底だった。父親が失業したあおりで荒れた公立校へと転校させられ、両親は離婚寸前。そんな冴えないコナーは、ある日ラフィナという女性を見かける。彼女に一目惚れしたコナーは思わず「僕のバンドのMVに出ない?」と声をかけてしまう。あわててバンドを結成し、曲作りやMV撮影を始めるのだが・・・。

 「ONCE ダブリンの街角で」「はじまりのうた」のジョン・カーニー監督が、自身の少年時代の体験をベースに撮り上げた青春映画です。

「ONCE~」では、やはりダブリンが舞台で、ストリートミュージシャンの男性が花売りをしている移民の女性と音楽を通じた交流をしていく姿を描いていました。2人は口数が多い方ではないので、関係はつかず離れずといったはっきりしない部分もありましたが、その出会いがやがて男性がロンドンで音楽をやっていくことを決意することにつながっていきます。

「はじまりのうた」では、舞台こそニューヨークであるものの、落ち目の音楽プロデューサーと恋人と別れたばかりでバーの小さなステージで歌っていた女性の出会いから、また新たな音楽が生まれるさまを描いています。

そして本作につながるわけですが、共通しているのが「音楽」「ドン底」「出会い」ですね。

音楽については、「ONCE~」では主人公の2人ともアーティストなのでその音楽のクオリティーは素晴らしいものがありました。
「はじまりのうた」も決して歌手が本業ではないキーラ・ナイトレイの歌声が、プロとして歌っているわけではない役柄にマッチしていました。
これらの音楽が現代(といっても「ONCE~」はもう10年前ですか・・・)だったのですが、本作「シング・ストリート 未来へのうた」では舞台は今から30年前の1985年になります。
この時代の音楽といえば、デュランデュラン、モーターヘッド、ダリル・ホール&ジョン・オーツなどは映画でも使われていましたし、主人公がちょっと歌うシーンがあるA-haの「テイク・オン・ミー」、それ以外にもマドンナの「ライク・ア・ヴァージン」やヴァン・ヘイレン、カルチャー・クラブなどPOP、ディスコ・ミュージック、ニューウェーヴが全盛期でした。

また、マイケル・ジャクソンの「スリラー」が大ヒットしたのもこの時期で、その爆発的ヒットもさることながら、マイケルをはじめ出演者が総出でゾンビメイクで踊るあの印象的なMVも話題になりました。
本作の世界はまさにその時代で、主人公たちのバンドがMVを撮影するのに躍起になるのも、その流れと言えます。
最初のMVはどことなく「スリラー」に似ていますしね。

「ドン底」からの再生は3作に共通しています。
「ONCE~」では、主人公は親の仕事をたまに手伝いながらストリートミュージシャンをしているという状況で、大好きな音楽は続けたいけどこのままでいいのかという葛藤を持っています。
「はじまりのうた」でも落ち目の音楽プロデューサーと振られたばかりのバーのシンガーという状況です。再起をかけてレコーディングをしようとするもお金がないので、そのへんの町中で収録するという大胆な方法に出ます。
警察が来たら逃げる方式のゲリラ的なもので、このシーンは映画の中で一番好きでした。

アイルランドでは、1995年あたりから好景気に湧く時期がやってくるのですが、「ONCE~」はちょうどその好景気が始まったあたりで、様々な可能性や希望が芽生えてきた時期でもあります。
対して1980年代のアイルランドは雇用を増やすために公共事業などを拡大した煽りで、景気が停滞している状況でした。本作でも主人公の父親が失業したため、荒れた公立校への転校を余儀なくされます。
初日からいじめられっ子には目をつけられ、学校からは靴の色が違うとケチをつけられるハメに。
大小それぞれですが、誰でも経験している挫折から立ち直るという姿は思わず応援したくなりますね。

そしてこれまた3作に共通しているのが、ドン底から立ち直るきっかけとなる「出会い」です。
「ONCE~」でもストリートで演奏しているところを聞きに来た花売りの女性が、ピアノを弾くのが好きだというところから展開していきますし、「はじまりのうた」でも落ち目の音楽プロデューサーがバーで管を巻いていると、そこで歌っていたシンガーに希望を見出してという展開になっています。

そして本作では、主人公が一目惚れした女性に咄嗟に「自分たちのバンドのMVに出てくれない?」と声をかけるところからスタートします。
まさに女の子にモテたくて音楽を始めるという多くのロックキッズなら大いに共感できるところですかね。
他に漏れずに本作の主人公コナーも不純な動機で音楽を始めるわけですが、それに乗っかっていくのが他のメンバーたち。
彼らもまた閉塞感の中先の見えない未来に希望を見いだせずにいたのでしょう。特に一緒にバンドを組むエイモンは、たくさんの楽器を演奏できるのにコナーに誘われるまでそれを披露する場所はありませんでした。
エイモンの母親がコナーたちが来ると嬉しそうにお茶を持ってきてくれるところなんか、エイモンに友だちができて喜んでいるのでしょう。
他のバンドメンバーも詳しく背景は描かれていませんが、似たような状況にいるのでしょう。
晴れてバンドを結成し、約束通りMVに出てくれることになったラフィナもまた、コナーとの出会いによって変わることになります。彼女自身もモデルを目指し努力はしているのでしょうが、ダブリンの、それも親のいない孤児という状況ではいろいろと厳しいのでしょう。

辛い現実からいつか抜け出したいと思っていても、その方法がわからない、方法がわかっても決心がつかない、そんな思いをかかえている人にはグッとくる展開ですね。

コナーはたしかにドン底にいましたが、バンドの仲間や自分の音楽のいちばん身近な先生でもある兄、そして憧れの女性ラフィナと出会い、成長していくのです。

そしてついに!彼らが初めて人前で演奏するときがやってきます。
学園祭での体育館のステージというのがなんとも・・・と思っていたらアイルランドのモンスターロックバンド、U2もデビュー前の初ライブは学園祭だったそうで、そのあたり監督も意識しているんでしょうねえ。

ここでのライブでは、この映画で描きたかったこと全てが凝縮されていると言っても過言ではないです。
男子の中にはブーイングしている者もいるけど、前の方は黄色い歓声の女子でたくさんですし、ロックな曲から学校に対する反体制の歌などバラエティーに富んでいます。
コナーが歌っている途中で、いつしか、コナーの理想のライブ風景がまさにMVのように画面に再現されるのは、ぜひ映画館で見て欲しい1シーンです。

コナーは仲間たちの夢を背負い、ドン底から抜け出すことのできなかったロックの先生である兄の思いを受け、まさに大海原へと旅立っていくのでしょう。

音楽でなくてもいい。
何かに挑戦し続けている人に、そしてかつて何かに挑戦したけど夢破れてしまった人に、この映画はあるのかもしれません。

ミニシアター系の作品なので上映館はあまり多くありませんが、ぜひ映画館でご鑑賞を!(^O^)/

「葛城事件」から考えるピグマリオン効果



「葛城事件」では、家長である清ができの良い兄・保にばかり期待をかけて、弟の稔にはあまり期待をしていませんでした。

その結果として、保は大学を出て、清の言うところの立派な会社に勤める一方で、稔は大学に行かず、バイトも長続きしないニートの状態となっていました。
映画では子どもたちが幼少期の頃は短い時間しかシーンがないので、実際にどのように接していたかはわかりませんが、その頃からすでに兄の保に期待をしていることを清は周りに言っていました。

Rosenthal & Jacobson,(1968)は、ある小学校で、ハーバード式突発性学習能力予測テストというある種の知能テストを実施し、その結果として、今後成績が伸びる児童をリストアップし、それを担任の先生にだけ見せました。その後、再びこの小学校で成績がどれぐらい向上したかを調査したところ、先のテストでリストアップしていたという結果になりました。

これだけ聞いたら、「ハーバードなんちゃらテストって正確なんだなあ。」ぐらいにしか思わないかもしれませんが、実はこの最初のテストの実施後に担任の先生に伝えられた成績が伸びると予測された児童のリストは、テストの結果とは関係なくに無作為に選んだ児童でした。
つまり、デタラメにある児童は成績が伸びる、と伝えたにすぎなかったのですが、それで本当に成績が向上したということになります。

Rosenthalは、このようになった要因として、担任の先生が、「この児童は成績が伸びる」と認識したら、たとえあからさまなえこひいきや差別はなくともやはり心のどこかで期待を持ってしまい、それが表情や仕草、熱意に現れると、期待された児童たちもそれを敏感に感じ取り、その期待に応えようとすることで、本当に成績が向上したということを挙げています。
このように、教師が期待することで、期待された子どもが本当に成績が向上することを、ピグマリオン効果(または教師期待効果)と言います。
ちなみにピグマリオンとは、ギリシャ神話で恋焦がれた女性の彫像を神の力で本当の人間にしてもらったというエピソードから来ています。

映画では清は稔や他の人もいる目の前で保を褒め、期待していることを公にしているのですから、保がその期待に応えようと頑張ったというのも頷けます。

それでは、もし教師や親が子どもに対して何も期待しなかったとしたらどうなるのでしょうか?
Babad, Inbar, & Rosenthal(1982)では、教師が児童に対して何の期待も持たないと、やはり期待されていないということも児童は敏感に察知し、頑張ろうという意欲を失うことで、本当に成績も下がっていくということも示されています。
このことは、ゴーレム効果と呼ばれています。
ゴーレムはRPGなんかにも出てきますが、意思を持たない泥人形で呪文で動き出しますが、額の護符の文字を消すと土に帰るというところから来ています。

稔があのようになってしまった原因の1つには清の接し方が問題であることを示していますね。

しかし今ではこれらの効果が必ずしも起こるとは限らないと言われています。
その後同様の実験をしても同じような結果が出ないという再現性の低さや、教育者の間でこのピグマリオン効果が認知されてしまい、調査そのものが難しいこと、そして何より、実験的に検証することが、子どもたちの将来を左右してしまうという教育上のモラルの問題もあります。

「葛城事件」では皮肉にも清の期待に応え続けた保は悩みを誰にも言えずに自分の命を断つこととなり、期待されなかった稔は間違った方向とは言え自分の本懐を遂げたことになっています。

子どもに対しては、期待しすぎても、期待しなさすぎても良くないということですね。

[引用]
Babad, E. Y., Inbar, J., & Rosenthal, R.(1982). Pygmalion, Galatea, and the Golem: Investigations of biased and unbiased teachers. Journal of Educational Psychology, 74, 459-474.

Rosenthal, R. & Jacobson, L.(1968). Pygmalion in the classroom. Holt, Rinehart & Winston.

「葛城事件」感想。


(公式HPより引用)

また仕事の関係で北海道を離れておりまして、更新をさぼっていました。
ご来訪いただいた皆さま、申し訳ありません。m(_ _)m


[story]
葛城清(三浦友和)は、親のあとをついで金物屋を営んでいる。妻の伸子(南果歩)と、長男の保(新井浩文)、次男の稔(若葉竜也)と4人家族だが、唯一の悩みの種は、次男の稔がアルバイトをすぐにやめては家でダラダラと過ごしていることだった。それを庇い立てする伸子とも雰囲気の悪くなる一方で、さらには長男の保がリストラされてしまい・・・。

2012年に「その夜の侍」であるひき逃げ事件の被害者家族と加害者の関係を描ききり話題となった赤堀雅秋監督が、自身の作による舞台「葛城事件」の同名映画化が本作です。

予告でもさんざん流れていますが、本作の中心にあるのが、次男・稔の起こした無差別殺傷事件で、それによって家族が崩壊してしまう話なんだろうなあ、と見る前は思っていました。
しかし、本作は始まりから、そんな単純な言葉では片付けられない、どす黒い何かに支配されるような感覚を、これでもかと伝えてくる作品でした。
正直、誰ひとりとして共感すらできない人間のクズばかりが登場するんですが、ふとした瞬間に自分もそっち側に行ってしまうのではないか、という空気をはらんでいて、それがまた恐ろしい作品にもなっています。

以下、ネタバレも含めて書いていきたいと思いますので、未見の方はぜひご鑑賞後にお読み下さい。


冒頭、中年の男、清が「バラが咲いた」を口ずさみながら、家の塀を塗りなおしています。
その塀には、誹謗中傷の落書きがびっしりと書かれています。
もはや何の感情もわかず、もくもくと落書きを消す姿に、これはもう繰り返し行われていることなのだと分かります。
庭に戻ると、ミカンの木にはまだ青い実がいくつかなっていました。

場面は変わって、裁判のシーンとなります。
若い青年の被告は無差別殺傷事件で、死刑の判決を言い渡されます。
その瞬間、この青年は、傍聴席にいた清に向かってニヤリと笑います。
この青年こそ、清の次男・稔でした。

清のもとに、星野(田中麗奈)という女性がやってくる。彼女は死刑囚となった稔と獄中結婚したというのだ。スーツ姿をしているもののどこかやつれて憔悴しきったようなイメージです。
彼女の来訪からずっと葛城家では電話が鳴り続けているのだけど、清は一切出ようとしません。このあたりにも事件後の様々な誹謗中傷やいたずらの数々に慣れきっている姿が描かれています。
対して、星野も同様の嫌がらせを受けていることを告白しますが、清のように割り切れていない状況です。

それでも星野は「人間に絶望したくないんです。わたしは彼(稔)を愛することで、彼もきっと心を改めてくれます。」と胡散臭いまでの純粋さで言ってのけるのですが、それに対する清は、「水色か。ブラジャー、透けてるよ。」とゲスの極みの一言です。
そして、こんなことがまかり通っているのは日本の社会が悪いと悪態をついています。

これ以降、清と星野が中心となる現在と、稔が事件を起こす以前の過去という2部構成で展開していくのですが、これがなんとも残酷です。
観ているものはすでにこの葛城家が崩壊することを知っているわけですから。

以下、本作がある家族の崩壊だけを淡々と描いたものではないということを書いていきます。

1. 実際の事件に影響を受けている

冒頭の葛城家の塀にびっしり書き込まれた誹謗中傷、罵詈雑言の数々は、和歌山県で起きた毒物カレー事件の林真須美容疑者の家と同じ状況です。
父親が厳格な人、母親が精神病院に入院、兄が自殺してしまっている、そして獄中結婚しているなどの設定は、附属池田小事件がモチーフとなっています。
そして、アルバイトを転々として定職がない、事件を起こした動機などのキャラクターの部分は、土浦・荒川沖駅連続殺傷事件や秋葉原通り魔事件を彷彿とさせています。
どの事件もその内容や被害規模から多くの人の記憶に残っていることもあって、本作のような事件が実際に起こっても不思議ではないと感じてしまうのです。

2. どんなに崩壊していてもやはり家族

最終的に一家離散という形になってしまう葛城家ですが、皮肉にも、清と稔、伸子と保には似ているところがあるように思いました。

清は中華料理店でクレームをつけた時や、稔が事件を起こした後で様々な誹謗中傷やいたずらに接したあとで、それらは社会が悪い、日本が悪いといった実体のない巨大なもののせいにしています。
これは結局のところ責任転嫁でしかないのです。奇しくも自分が古き日本社会の象徴とも言えるような家父長制にこだわっているくせにです。
さらに、皮肉にも、何か納得いかないことがあると社会や日本のせいにするという点で、清と稔は非常に似通っています。

一方、伸子と保は事なかれ主義という点でよく似ています。
伸子はすでに葛城家がばらばらになっていることを自覚しているにもかかわらず、ただ明るく振る舞い、子どもたちを庇い立てすることで家族として成立すると考えています。
稔が保の子どもを叩いた時も、伸子は自分が一緒に遊んでてケガしたという嘘をついていますし、とにかく問題を回避しようという姿勢が表れていました。
保は子どものケガの時も、「大事に至らなかったしいいじゃないか。」と妻をなだめていますし、その前の中華料理店で清がクレームをつけている時も清が言いたいことをひと通り言ったであろうタイミングで、「もうそのへんでいいんじゃない?」と止める姿勢を打ち出しています。
極めつけだったのが、伸子と稔が家を飛び出して暮らしているアパートに清が怒鳴りこんできた時です。
清がことの発端である稔に迫っていき、殴ろうとしたり、首を絞めようとしたりしているとき、保は一切画面に映りません。
最後の最後になってようやく「やめろって・・・」と小さい声で言う程度です。
そして、保のその煮え切らない態度を稔も見抜いているのがこの家族のもの悲しさの1つでもあります。

3. 典型的なニートの稔が事件を起こすまで

稔は典型的なニートで、アルバイトを転々としている生活です。
口癖は、「一発逆転」で、何の努力もなく能力もなく、根拠もないのに、自分は何か大きいことができると考えています。
清が自分のことを疎ましく思っていることを把握していますが、それ以上に清が単に親の仕事を継いだだけ、とバカにもしています。
幼い頃から出来の良い兄と比較され続けたこともその彼の思いに拍車をかけたのでしょう。
幼少期のシーンで清は稔を軽んじているわけではないのですが、保のことを、「こいつはできが良いんですよ!」と自慢しているのを聞いて、「だけど次男は・・・」といった言外の意味を汲みとってしまっているのでしょう。
彼がそれなりにしゃべるのは、伸子とともに家を出たアパートでの束の間の会話以外では、事件後に星野が面会に来ているところだけです。
星野に対してもほとんど心を開かない稔でしたが、最後の最後になって、本音を吐露するシーンがあります。
やはり彼自身のストッパーとなってくれるような存在が必要だったのでしょう。

4. しっかりもののようでいて一番弱い保

幼少期から父親に期待され、それに応えるべくがんばってきた保。葛城家では唯一まともな存在に見えますが、一番弱さを抱えている人物でもありました。これは厳格な清の影に怯えて育ってきたからでしょう。
父親の顔色ばかりうかがって、自分の考えや意見を言うことなく、大人になってしまったのでしょう。
職場をリストラされてしまう時も、営業なのに売上がゼロだったという致命的な理由がありましたし、その後の再就職の面接では緊張して自分の名前すら言えない状態になっています。
中華料理店でも、伸子のアパートでも、とにかく嵐が過ぎ去るのを待つかのように問題に関わらないようにする姿勢でした。
結局、リストラされたことを誰にも相談できずに、あっさりと自分の命を絶ってしまうというのはやるせない気持ちになります。

5. 家族を大切にするふりをしている伸子

伸子は家族のバランサーでもありますが、家族の食事のシーンはコンビニ弁当だったり、出前のピザだったりします。家出中のアパートでもコンビニの弁当でした。もちろん料理ができないのが悪いということではないのですが、家族団らんのための努力をしているとは到底思えません。
子どもたち、とりわけ稔のことを可愛がってはいますが、結局は甘やかしているだけですし、稔が事件を決行しようと家を出て行く姿を見ているのに、どこに行くのかも確認していません。
稔が保の子を叩いた時も、嘘をついてなんとかごまかそうというその場しのぎの対応しかできていません。
保の死も、「なんで一緒に暮らしているのにわからなかったの?」と保の妻を責めるばかりでした。この言葉はまさに自分にも当てはまりますね。

6. すべての発端である清

一家の主として、家族を養い、一軒家を建てたという清は、まさに古き日本のしきたりでもあった家父長制に代表されるような厳格な父親になっています。
しかし、彼の仕事は自分の親の代から続いている金物屋を継いだだけで、彼自身の努力によるものではないのです。
この金物屋とて、繁盛しているわけでもなく、清は店の奥のカウンターで仏頂面して座っているだけです。この絵は映画のポスターにもなっていて、保も一度座って見るシーンがありますが、所狭しと商品が積み重ねられているため、そこから見える世界がなんとも狭いのです。そんな狭い視野だからこそ、家族の崩壊を自分が引き起こしているのにも気がつきません。

中華料理店では、店員にクレームをつけていますが、保の妻が妊娠しているにもかかわらずすぐ隣りでタバコをプカプカ吸っています。
稔が事件を起こした後で、星野とスナックに行っている時にも、他の客に文句を言われると逆ギレしてこう言います。「オレがいったい何をした!オレだって被害者なんだよ!」と。
これは映画のキャッチコピーにもなっていますが、これは稔の行動に対しての責任逃れであるとともに、清は偉そうにしているものの、その実は「何もしていない」ということにも受け取れます。

親の仕事を継いだだけで、家はあるけど裕福というわけじゃなさそうです。稔が序盤で「私立大学も視野に入れていた」云々と言っているシーンがあるのですが、これは学費がなくて断念させられたのかもしれませんね。

とまあ否定面ばかりを強調してしまいましたが、保が大学を出てちゃんとした企業に就職したことを誰よりも誇りに思っていたのも彼でしょう。
序盤の朝食のシーンで保のネクタイを褒めるところがありますが、かつての言い方でいうホワイトカラー、ブルーカラーの意識が人一倍強いのかもしれません。自分はブルーカラーの側の人間で、保や稔になんでも自由にはさせてあげられなかったかもしれないからこそ、保には頑張ってもらいたいという気持ちの現われでしょう。
リストラにあった保が「この店(金物屋)継ごうかなあ?」とぼそっと言った時もしっかり否定していますし、家を建てた時のホームパーティーでも保には継がせないで、「俺の代で終わりだ。」と言っていました。
これが結果的に保に重圧となってしまったのもまた悲しい話です。


7. 最後まで人間に絶望したくない星野

彼女は稔と獄中結婚し、凶悪な事件を起こした彼もいつしか心をひらいてくれるはず!という希望を持っています。
が、すでに紹介したように映画の冒頭に星野が葛城家を訪ねてくるシーンが来ているため、彼女のその行為が周囲には理解されず、葛城家と同じように誹謗中傷の対象となっていることを観ている側は知ってしまっているのです。
死刑反対派による獄中結婚というのは、先の附属池田小事件でも実際にいたように、決して少なくない事例のようです。
最初に清が「どこの新興宗教だ!?」と訝しんだように、彼女は本作においてある意味一番ネジが外れたキャラのような違和感を受けます。

彼女の人間性を信じたいという考え自体はいいのですが、本当の家族を前にして、「彼(稔)は家族からまっとうに愛されなかった」だとか「本当の家族を知らない」だとか言ってのけるのは、違和感を超えて狂気すら感じるレベルでした。
精神病院に入院している伸子が「セミが鳴いてる」って言ったのも、皮肉にしか映りませんでしたし。
彼女の家庭環境や生い立ちについてはあまり触れられていませんが、実の家族からはこの一件で勘当状態というのもまた皮肉ですね。

その彼女も稔に邪険にされつつも面会を繰り返し、唯一彼の心を開いたと思った瞬間は、彼女がかつての恋人との生々しい体験を吐露している時でした。
キレイ事や御託ではなく、初めて本音をぶつけたからこそ、稔の心も動いた瞬間だったのではないでしょうか。

稔の死刑執行を葛城家に報告に言った後、清に抱きつかれます。
清は「自分が人を殺して死刑になったら、あんたは結婚してくれるのか!」と言います。
そんな清を完膚なきまでに拒絶した瞬間に、星野の行為もまた結局相手のためではなく自分のためであったということが露見してしまいます。

8. 罰とは何なのか。

スナックで常連に絡まれた時、清は最初こう言います。
「あいつ(稔)は国が裁いて、国がちゃんと死刑にしてくれる」と。
しかし、その後、すぐに言い直します。
「いや、むしろあいつを死刑にしないで欲しい。ずっと生かして罪の意識を味わって欲しい」と。
稔は自分が死刑になることを望んでいるので、もし死刑にしてしまったら彼の望み通りになってしまいます。それを罰と呼べるのかという疑問が出てきます。
これは、先の土浦・荒川沖駅連続殺傷事件の犯人の動機と同じで、今年6月に発生した釧路イオンモールでの殺傷事件の犯人も同様のことを供述しています。
土浦の事件では、犯人の弁護士が「死刑にしてしまっては望み通りになるので死刑にはできない。」という弁護を持ち出すほどでした。

本作では、最後に星野に去られた清は、家の家具をめちゃくちゃにしていきます。名実ともに家族が崩壊していくのです。そして庭に咲いていたミカンの木で首をつろうとします。家族の象徴であった今は誰もいなくなった家の、その家を建てた時に記念で植えたミカンの木でその生命を絶とうとするのです。
最後にどうなるかはぜひ映画を見て確かめて欲しいのですが、残酷なまでに救いを用意しない作品でした。

本作は、次男の無差別殺傷事件が中心に描かれていますが、実はとっくの昔に崩壊していたのです。
リストラされたことを誰に言えなかった長男は、あっさりと自殺を選びます。次男はそれについて「ダセェ・・・」とつぶやいた後で、この事件を計画します。
ほんの些細なきっかけでこのような事が起こってしまうという日常との連続性が、本作においてもっとも戦慄すべきことでした。

本作で家族が家族らしさを見せるのは、家を建てた時のお祝いパーティーのシーンと、伸子が家を飛び出してアパートで稔と保とごはんを食べているところでした。
そこでは「最後の晩餐に何を食べたい?」という話題が出ていますが、本当に何気ない、ありきたりの家族の会話のシーンとなっています。
家族にとってほんとうに必要だったのは、立派な家でも、肩書でも、ステータスでもなく、そうした何気ない会話だったということを印象づける作品でした。

非常に重い話ですが、家族のあり方を改めて考えさせてくれる作品でもありました。オススメです!

「秘密 THE TOP SECRET」から考える催眠の効果



「秘密 THE TOP SECRET」では、薪や第九の面々がとらわれることとなった貝沼事件で、貝沼による催眠が描かれていました。
それでは心理学の世界で催眠はどのように捉えられているのでしょうか?

心理学の世界では、催眠術という言い方はあまりしません。
単純に「催眠」というか、臨床の場面で用いられる場合には「催眠療法」という言葉が一般的です。

催眠療法の歴史は、18世紀後半のメスメルに遡ります。メスメルは人体に磁気が与える影響に注目し、磁気を発生する装置を用いて様々な治療を行ったとされています。彼が動物磁気と呼んでいた人体の磁気に磁石を当てることで流動させることによって、治療効果があげられるとしていました。
しかし、当時フランス国王だったルイ16世が設立したフランス科学アカデミー委員会によって、この磁気治療の効果があるのは「患者が磁石を当てられて磁化されている」と認識したときのみだとみなし、磁気治療そのものが効果があるとは断言できないとしました。

これにより彼の考え方は科学的な根拠があるものとはみなされなくなってしまうのですが、後に彼の弟子となったビュイゼギュールによって、磁気をあてられることで眠っているかのような状態(彼は人口夢遊病と名づけています)に陥ることを示しました。この状態が今で言う、催眠トランスです。この技術は麻酔が誕生するまで、外科手術の際に用いることで催眠状態とし、手術中の痛みを緩和することにもつながっていました。

また彼は、この手法を重症精神病の患者に用いるのですが、これが今日の精神療法の先駆であったとも言われています。彼によってメスメルの功績もまた再評価されるようになり、「秘密 THE TOP SECRET」でも出てきたメスメリズムという言葉で知られるようになります。

その後、イギリスのジェイムズ・ブレイドは、メスメリズムの根源にあるものは動物磁気ではなく、治療者や術者による暗示の効果であるとし、磁気を用いることなく催眠状態を作り出す公開実験を行っています。
この考え方はフランスのアンブロワーズ=オーギュスト・リエボーにも支持され、普及していくようになります。

アメリカのミルトン・エリクソンは2000人以上もの相手に催眠実験を行い、催眠はコミュニケーションの1つであるという考えに至ります。同じ言葉でも2通り(ダブルテイク)、3通り(トリプルテイク)の解釈ができるということや、言葉の命令的側面(例えば、「窓が開いていますね。」と言った時、「窓を閉めて下さい。」という意味合いが含まれるということ)、呼吸や抑揚の理解によって、巧みに催眠状態に導くことができると主張しました。

ということで、催眠療法として今日も用いられているものは、呪術的なものではなく、コミュニケーションによって自己暗示を起こさせるといったものが主流です。
催眠というと胡散臭い印象があるかもしれませんが、それ自体に危険性があるとは言えないということで、日本だけでなく欧米においても国家資格が必要というわけではないようです。
アメリカでは催眠の博士号が存在しており、日本では民間団体の資格はあるようです。

日本で催眠、催眠術というとどうしてもバラエティー番組なんかで、催眠術にかけられた人が自分は鳥になったと思い込むとか、そんな眉唾モノが多いので、どうしてもインチキとかヤラセを疑ってしまうのですが、根本の概念としてはしっかりしているようです。

ということで催眠の根底にある自己暗示を用いた心理学実験を紹介します。
Blanchfield et al.(2014)では、24人の実験参加者に、8割ぐらいの力でランニングマシンで運動してもらった後で、一方のグループには、自分を励ますような言葉を言い聞かせ、もう一方のグループには何もさせないで、そのまま運動を継続してもらいました。2週間後に再びランニングをさせると、自分に言い聞かせをしたグループのほうが走行距離が長くなり、疲労を感じる度合いも小さくなったという結果になりました。

Kross et al.(2014)では、実験参加者に審査員の前でスピーチをしてもらうとお願いし、その前に、一方のグループには、「私(I)はなぜ緊張しているのか?」と、自分を主体とした言葉でひとりごとを言ってもらい、もう一方のグループには、「あなた(You)はなぜ緊張しているのか?」のように2人称を用いたり、「◯◯(自分の名前)は、緊張していますか?」と他者から語りかけるようにひとりごとを言わせたあとで、スピーチの際にどのぐらい緊張したかを調査しました。その結果、前者の1人称を用いた時よりも、後者の2人称や自分の名前を用いた時のほうが緊張しなかったということでした。さらに、審査員のスピーチに対する評価も、後者のグループのほうが高くなっていたそうです。これは、ひとりごとでも2人称や名前を用いることで、自分を客観視することができ、それが効果的に働くからだと捉えられています。

映画の話からかけ離れてしまいましたが、自己暗示を効果的に使うのは自分を向上させることに繋がりそうですね。
でも、場所を選ばないと貝沼みたいにアブナイ人だと思われますのでお気をつけ下さいね・・・(;・∀・)

[引用]
Blanchfield, A. W., Hardy, J., De Morree, H. M., Staiano, W., & Marcora, S. M.(2014). Talking yourself out of exhaustion: the effects of self-talk on endurance performance. Medicine & Science in Sports & Exercise, 46, 998-1007

Kross, E., Bruehlman, S. E., Park, J., Burson, A., Dougherty, A., Shablack, H., Bremner, R., Moser, J., & Ayduk, O.(2014). Self-Talk as a Regulatory Mechanism: How You Do It Matters. Journal of Personality and Social Psychology, 106, 304-324.

「秘密 THE TOP SECRET」感想。


(公式HPより引用)

[story]
死んだ人間の脳をスキャンして、その人物が見た映像を再生する“MRI”という新たな捜査手法で迷宮入り事件の解決を目指す特別捜査機関、通称“第九”。新たに第九にやってきた操作官・青木(岡田将生)は、第九の室長・薪(生田斗真)らとともに、MRI捜査に携わることになった。その目的は、家族3人を殺害して有罪となり、死刑が執行された露口浩一(椎名桔平)の脳をスキャンし、今も行方不明となっている長女・絹子(織田梨沙)を見つけ出すためだった。しかしそこに映っていたのは、刃物を振り回す絹子の姿という予想外の映像だった。冤罪の可能性が濃厚となる中、薪たちは当時事件を担当した刑事・眞鍋(大森南朋)を捜査に加え、事件の真相究明に乗り出すのだったが・・・。

清水玲子の同名コミックを、「るろうに剣心」「プラチナデータ」の大友啓史監督が実写映画化したのが本作です。

原作未見の状態での鑑賞だったのですが、ちょうどWebコミックで最初の方の巻は無料で閲覧できるようだったので、さくっと見てみました。

原作における貝沼事件と、露口家で起きた一家3人殺害事件をミックスして作ったのが映画の本筋にあたります。
原作では、これらは別個のストーリーとなっていましたので、映画はある意味オリジナルとも言えます。

その結果、映画全体の筋道が見えづらくなってしまった上に、いろいろと未解決というか放置のまま終わってしまった印象が強いのと、2つのエピソードをつなぎあわせたのにほころびが生じていたというか、展開の合理性を欠いてしまった印象が強いのが残念でした。

というわけで、以下、なぜそのような印象になったのかを書いていきたいと思いますが、ネタバレも含まれると思いますので、未見の方は、ぜひご鑑賞後にお読み下さい。


1. MRIによる捜査の証拠能力

原作では、第九の捜査権はかなり強く、手錠や拳銃の携帯も許可されています。配属されるのもエリート中のエリートばかりです。しかし映画では、手錠や拳銃の携帯はおろか、証拠能力としてすら認めてられない状態です。そのため、映画ではあまり他の部署からもよく思われていない雰囲気が出ていて、煙たがれている様子でした。

貝沼事件におけるMRI捜査によって、捜査官が3名も死んだという点は原作と一緒なので、そこからMRI捜査を禁止している(だけど薪はそれにこだわり続けている)といった設定ならばまだ理解できるのですが、扱いがどうも中途半端だった印象があります。

そもそもMRI調査でスキャンした脳から得られる情報が、記憶としての情報なのか、見ていたものを映像としてとらえることができるのかがわかりませんでした。これは原作でもそうなのですが、すこしぼかされている印象でした。
脳の記憶という観点で言えば、確かに記憶は変容することも考えられるので、それだけで証拠能力としては弱いというのも頷けます。
このあたりは、「スキャナー 記憶のカケラをよむ男」あたりでもそれに惑わされているシーンがありました。

最終的に、露口家の一家殺害事件を解決した(?)ことで、MRI調査が晴れて認められることになるという流れにはなっているのですが、ここに至るまでも多大な犠牲を出している上に、この事件も解決したというか事実はなんとなくわかったが煙に巻かれたという印象の方が強いので、これで正式採用というのも腑に落ちない形でした。

もっと言えば、生きている人にMRI調査をできないのかという問題ですね。倫理的な問題などはともかく、露口浩一は死刑になることが確定しているのですから、可能ならば生前にMRI調査すべきではと思ってしまいました。
原作では、脳を120%活性化する云々の説明がありますが、あくまでも記憶の部分を取り出すということであれば活性化は関係ありませんし、生死の状態も問われません。まあ、ここから突っ込んでいたら根底からひっくり返しちゃいそうなので、フィクションだし、マンガだしということで、とりあえず目を瞑っておきましょう。

2. 露口家一家殺害事件のてん末

こちらは原作と映画では基本路線は一緒で、その解明の方法も同じなのですが、一番違うのが動機というか事件の発端となる部分でしょうか。
原作では、一家殺害事件の生き残りの娘・絹子が幼少期に父親に暴行されていたことが元で、男性に対し異常なまでの嫌悪感を示すようになっていることが示唆されていますが、映画ではむしろ妖艶な雰囲気の絹子が父親すらもたぶらかしたという絵で描かれていました。
どちらの描き方でも父親が罪を被り冤罪のまま死刑となった理由にはつながるのですが、絹子が殺人を犯す理由が映画では全く出てこないことになります。とすると結局、絹子はサイコパス!で片付けているという印象しかありませんでした。
そうか、サイコパスだったのかー。なるほど(強引な納得)。

3. 露口家一家殺害事件の調査とオリジナルキャラの存在意義

そして1の問題ともかぶりますが、MRI調査は証拠能力に乏しいので、絹子の犯行だと裏付けるべく、青木と眞鍋は一家殺害事件の被害者の体内からモルヒネが検出されたことに注目し、絹子のモルヒネの入手先を当たることになります。
このあたりは原作にはないシーンで、最初は絹子と関係のあった薬学部の大学生をあたり、さらには絹子の主治医でタイ?かどっかで放蕩している斉藤(リリー・フランキー)を訪ねます。
そこで彼は、「人間は誰もが仮面をかぶっている」と意味深なことをつぶやきつつ、絹子の背後に貝沼(吉川晃司)の存在があることを匂わせます。
斉藤は絹子や貝沼の望み通りにすることを厭わないタイプなので、モルヒネを渡したのかもしれませんが、ここは定かではありません。
このリリー・フランキー扮する斉藤は映画オリジナルのキャラですが、今後全く出てきません!

結局めぼしい証拠が掴めないので、眞鍋は強行手段に出ます。
絹子に銃を突き付けて、無理やり自白させようとしたのです。
そこまで眞鍋が追い詰められていたのは、彼もMRI調査による映像を見てしまった結果、この世のものとは思えない存在がフラッシュバックしていたのです。
眞鍋を止めようとする青木とも撃ち合いになった挙句、最後は自分で脳を撃ちぬいて自殺してしまいます。
大森南朋扮するこの眞鍋も映画のオリジナルキャラですが、もう少し活躍する姿を見たかったですね。
一家殺害事件の露口を逮捕したのは彼なので、それが冤罪だったと知ってしまったから真犯人である絹子をどうしても捕まえたいという執念を持っているという形が出ていればよかったんですが・・・。
そもそも捜査に携わっているのも、露口からネコババした腕時計のことを指摘されて仕方なく、といった感じでしたしね。

4. 貝沼事件

第九に衝撃が走った事件ともなったのが、貝沼による少年28人殺害事件です。事の発端は薪と貝沼の出会いで、原作では新米警官だった薪が貝沼の万引きを見つけながら罪には問わなかったというシーン、映画では薪がなぜか教会でホームレスの人に炊き出しボランティアをしている時に、財布を盗もうとした貝沼を見逃したというシーンになっています。
貝沼にとって薪の存在が衝撃であり、愛とも憎しみともつかない感情にとらわれて、以降、サイコパスとしての道を着々と歩んでいくことになるのですが、獄中で自殺した貝沼の脳を見た捜査官が3人も自殺してしまうという事態を招いてしまいます。
その一人、鈴木(松坂桃李)は薪の親友だったのですが、彼は薪に貝沼の脳を見せまいとして貝沼の脳を破壊するとともに、自分も自殺しようとします。しかしそれができずに薪に銃を向け、自分の脳を撃たせます。

あれ?でも薪は結局貝沼の脳見ちゃってるよね?
映画では見てないんだっけ?(困惑)
なんだか鈴木の行為がだいぶ無駄になった感もありますが、それは置いておくとして、この見ると自殺したくなるっていう点も違和感あるんですよね。原作通りならMRIでスキャンできるのは視覚的な映像+イメージなので、その人の思念とかそういったところまで流れこんでしまうという設定であればもう少し納得できたんですけどね。
「幽遊白書」の室田がタッピングの能力で仙水の心を読んだ時のような感覚ならば理解できる・・・ってちょっと例えはわかりづらいかもしれませんが・・・(;・∀・)。
凄惨な殺害映像だったとしても、それは警察ならば大丈夫であってほしい、せいぜいゲロ吐くぐらいにしてほしいと思いますね。

5. 絹子と貝沼の接点

これも貝沼の脳内映像から、貝沼が主宰していたカルト教団的なものの集まりに絹子がいたことが分かりますが、それだけで終わってしまっています。
同じサイコパスとして興味を持ち、何らかの手ほどきをしたのかもしれませんが、その時点で貝沼はすでに死亡しているし、その接点を見つけたところであの映像のように具体性のないものでは、それこそ絹子がサイコパスで一家殺害事件の真犯人であるということには到底つながらない気がしました。

6. BL的要素はあるの?

原作では、といっても2巻までしか読んでいませんが、やはり少女漫画ということもあってイケメンたちのBL的雰囲気が醸しだされている気がしました。
映画でも岡田将生、生田斗真、松坂桃李ときってのイケメンを取り揃えていますので、それに期待する腐女子の皆さまもいらっしゃるかと思いますが、あまり映画では露骨には描いていません。絹子の方は鈴木にガンガン迫ってきていますけどね。
ただ、それぞれが十二分に魅力を振りまいてくれていますので、それ見ただけでご飯何杯でも行けるってなるかもしれません(ただしグロい部分もあるので、そのご飯、戻さないでくださいね)。


とまあちょっと本作に関しては乗りきれなかったというのが正直な感想です。
原作の2つのエピソードをうまく統合できていないために、2時間半もありながら消化不良という印象が否めませんでした。
原作者も当初、「話を盛り込み過ぎなのでは?」と危惧していたようで、自分もそのように感じました。
これは監督の「プラチナ・データ」を見た時にも同じような印象だったんですよね。
大友監督はこの後「ミュージアム」「3月のライオン」と話題作が控えているのですが、どうなりますかねえ・・・。

ちょっと否定的な意見が続いたので映画としてよかった部分も書いていきたいと思います。

1. 貝沼のキャラ

映画では吉川晃司が演じているので、悪役とはいえカリスマ性を感じさせる存在なため、少年院で講演をしたり、カルト教団的なのの教祖をしていたりしてもなんとなく頷けるようになっています。
原作はハゲのおっさんなので、キャラそのものにあまり惹かれないというのがあります。
原作では、ジョン・ゲイシーをイメージしたキャラクターだと書いていましたが、アンドレイ・チカチーロの方が近いような・・・。
また、映画では、薪が貝沼の罪を見逃す時に「善と悪とは紙一重」だと言って励ますところがあるのですが、これは薪が善だと思ってした行為が貝沼という悪を生んでしまったというところにつながっていくセリフなので印象的でした。原作には確かなかったと思うので、このあたりは良かったですね。

2. 9人同時自殺事件のトリガー

貝沼が少年院で催眠をかけていた少年たちが同時に自殺するという事件が発生するのですが、このトリガーとなるのが、映画では、皆既日食となっています。「なかなか起こらないことで皆が思わず見てしまうもの」という条件でいて、昼間なのに暗闇に包まれる瞬間というのがまさに死が訪れる瞬間のメタファーという雰囲気もあって効果的でした。
この皆既日食の瞬間に鈴木は父親の介護をしているシーンで、思いつめたように父親を見つめているのですが、鈴木の家族もまた何者かに殺されており、父親が唯一の生き証人となっています。父親が死ねばその脳をスキャンすることでこの事件も解決できるかも、そのためには・・・と鈴木が一瞬恐ろしい考えに囚われたと考えるとこのシーンはとても印象的でした。
この鈴木の家族の事件も(少なくとも2巻までの範囲で)原作にはない映画オリジナルだと思うのですが、これをもっと描いていれば、絹子の事件に鈴木が固執することにつながるんですよね。

ちなみに原作では、皇太子かだれかの結婚パレードを見るというのがトリガーでした・・・。そりゃ見るかもしれないけど興味ない人もいそうだよね。しかも数分見た程度ではダメという条件なのでもしかしたら誰も自殺しない可能性もあったんではないでしょうか?
映画ではこのトリガーとなる絵を見る時間については特に描かれていませんが、皆既日食の瞬間なのかもしれません。

とまあ、映画には映画の良いところもありますので、多少のグロ耐性は必要かもしれませんが、興味のある方はぜひ。

「シンゴジラ」から考えるリスク・コミュニケーションと予言の自己成就



「シンゴジラ」では、アクアトンネル崩壊が未曾有の巨大生物による仕業であると判明した時に、どのタイミングでどのように国民に伝えるかを議論するシーンがあります。
話し合いの結果、「上陸の可能性はない。」と発表した直後に上陸されてしまうのですからなんとも皮肉というか、政府対応のまずさを露呈した印象でした。

これは映画の中に限った話ではなくて、例えば、東日本大震災の折に、原発メルトダウンによる環境への影響について、政府高官の、「ただちに人体に影響を与えるレベルではない。」との見解が印象的だったかと思いますが、こういった場合の政府の発表はかなり慎重、悪く言えば不明瞭といったものが多いです。

そのため政府に不信感を抱く気持ちも大いに分かりますが、こうした災害などの状況においては、慎重にならざるを得ない事情がいくつかあります。
災害や何らかの危機において、その発生確率や被害の度合いなどを伝え、理解を促すことを、リスク・コミュニケーションと言います。
特に災害におけるリスク・コミュニケーションは、遅すぎても早すぎても問題となる場合が多いのです。

遅すぎた場合の問題は言うまでもなく、大きな被害が予想されるのに避難勧告が遅れてしまって一般の人々が災害の犠牲になってしまうということです。

それでは早ければ早いほどいいのかというと、必ずしもそうとは限りません。
1つは民衆がパニックに陥ってしまう可能性があることです。
パニック時の心理状態については、以前、こちらの記事にも書きましたが、いざという時、人はなかなかすぐに行動に移すことができないものです。
もう1つはその地域に与える影響についてです。東日本大震災の時のように、原発メルトダウンとなると、その後の影響は事前には想定しづらいものです。また今年発生した熊本地震においてもいまだに余震が続いている状況なので、旅行などで行くのを控えている人も多いのではないでしょうか?
あまりに早くに情報を公開してしまうことで、その状況が十分に吟味されていないことが多く、結果として、その地域に与える経済的・心理的影響は膨大なものとなってしまうわけですね。

ということで、政府関係者、専門家によるリスク・コミュニケーションは、こうした災害時においては特にその判断に慎重にならざるを得ないわけですが、現代においては、インターネットが当たり前に普及したことにより、一般の人でも簡単に情報発信者になることができます。もちろん有益な情報もいち早く伝達することができますが、その一方で根も葉もない噂や、根拠の無いデマも簡単に拡散してしまうようになりました。

というわけで、今回は、流言、デマの心理学についてです。

日本では、関東大震災の時に、「朝鮮人が井戸に毒を入れている。」というデマが流れました。これによって罪のない朝鮮人がリンチで殺されてしまうなどの二次的被害も発生したようです。

先の東日本大震災では、「コスモ石油のプラントが炎上して、毒ガスが舞っている。」だとか、「空中に飛散している放射能が雨に溶けているから、雨が降っている時は絶対に外出してはいけない。」といったデマが流れていました。この時は、それらしい映像も流れたりしていた(実際には別の工場が燃えていた)ため、より信ぴょう性が高まってしまうことにもなりました。

熊本地震の際にも、「動物園の檻が壊れて、ライオンが逃げ出した。」というデマがtwitterによって流されました。この時も、実際にライオンが町中を歩いているように加工した画像まで載せて広められました。

熊本地震の際のデマは、動物園側も事実無根であるとし、デマを流した犯人も特定され逮捕されています。この犯人は悪ふざけでやったとのことで、言語道断ですが、それでは、これらの噂にすぎないはずの情報はなぜ広まってしまうのでしょうか?

実は流言や噂が広められるのは、悪意やイタズラ心によるものよりも、善意によるものの方が多いです。
流言や噂が流れてきた時、その情報の真偽を正確に判断することは極めて難しいです。
そうなると、人は、その情報が本当だった場合と嘘だった場合とで、自分がどうすべきかを考えることになります。

例えば、「これから10分後に大きな津波が来るから、高台に避難しなさい。」という噂を聞いたとします。
この時点では本当かどうかわかりませんが、自分のできる行動としては、「噂を信じて避難する。」か「噂を信じないでそのまま家にいる。」のどちらかになります。
この状況で一番避けたいのは、「噂は本当。」で、実際に津波が来ているのに、「噂を信じないでそのまま家にいる。」ことで津波の犠牲になってしまうことです。
これを避けるにはどうすればよいかと考えると、とりあえず噂が本当であることを想定して、「避難する。」ことになります。
避難してから噂が嘘だと分かった場合でも、単なる取り越し苦労だったと済ませることができますし、もし本当だったらそれで命が救われるわけですから、噂の信ぴょう性に関わらず避難すべき、というのが合理的だというのが分かります。

さらに、こういった情報を耳にした時、みなさんはどうするでしょうか?
おそらく、自分の家族や友人といった大切な人に伝えると思います。
もしこの噂が本当ならば、自分一人だけでなく家族や友人も助けたい、助かる可能性を高めたいと思うのは当然のことです。
そして、これが現代においては、twitterなどのSNSで容易に情報を拡散できるようになったために、友人、知人だけでなく不特定多数の人に一度に情報が伝播するようになったのです。

この情報の伝播の恐ろしさが伝わったのが、1927年に起きた取り付け騒ぎに端を発する金融恐慌です。
このときは、当時の大蔵大臣(現在の財務大臣)の失言により、中小銀行に預金をしていた多くの人が預金をおろそうと殺到したために、本当にその銀行が倒産してしまうという結果になりました。
これも、金融不安の噂の真偽はともかく、1人1人の預金者にとって避けなければならない状況が、「噂が本当で銀行が倒産し、自分の預金がゼロになる」ことなので、それを避けるために「預金を下ろす」というのは合理的な行動です。しかし、その合理性が皮肉にも噂に過ぎなかったことを事実に変えてしまうのです。

このように、何らかの情報がもたらされた時、その真偽に関わらず、その噂にしたがって個々人が合理的に行動した結果、その噂がほんとうになってしまうことを、予言の自己成就と呼んでいます。

だからこそ、情報を発信する側は慎重にならなくてはいけないのです。

Allport & Postman(1947)では、ニューヨークの地下鉄の風景を描いた挿絵を見せ、それを記憶して他の人に説明してもらいました。
いわば、伝言ゲームのようにその絵の内容を伝えていってもらい、最終的にどのような変化が見られるかを調べたものでした。
この実験の結果、人は話を伝える過程で、以下の3つの要素が働いていることを示しています。
1つ目は、平均化で、与えられた情報に含まれた多くの要素が、より少数ものにまとめられていくということです。2つ目は強調化で、平均化され限定された少数の情報のうち、典型的なもの、インパクトの強いものが強調されるというものです。そして3つ目は、結合化で、平均化、強調化によっていびつになった情報を統合し、全体として辻褄の合う、意味の理解できる内容にまとめられるというものです。

このプロセスを都市伝説として話題になった「口裂け女」で説明してみると、

最初の発言者:「うちのお母さん、普段は優しいけど、昨日はいきなり遊んでばかりいないで勉強しろっておもいっきり怒られてさー。もう目はつり上がってるし、口は思いっきり開いているし、この世のものとは思えなかったよ・・・」

それを聞いた人:「なんだかこの世のものとは思えないぐらい目がつり上がって口が大開きの女性がいるらしいよ・・・」(平均化)

さらに聞いた人:「普段は綺麗な女性なんだけど、突然口が裂けだして、包丁を持って追いかけてくるらしいよ!」(強調化)

そのまたさらに聞いた人:「マスクをしている女性が『私きれい?』って聞いてきて、そうだと答えるとマスクを取るんだけど、そうすると口が耳まで裂けていて、キレイじゃないって言うと包丁で殺されるらしいよ!!!」(結合化)

こんな感じでしょうかね?信じるか信じないかはあなた次第ですよ。( ̄ー ̄)ニヤリ

また、彼らは、情報の流布量は、その情報の内容の重要性と、その内容の曖昧さによって決定されるとしています。
重要じゃない場合、明らかに真実がわかっている場合には起こらないということですね。

Schachter & Burdick(1955)は、実際の学校で大規模なフィールド調査を行いました。学校全体に「職員室からテストの問題用紙が盗まれた」といううわさを流した場合(うわさ群)、ある1人の生徒が授業開始後すぐに校長室に呼び出されたという情報が伝えられた場合(あいまい状況群)、そしてこの両方が与えられた場合(うわさ+あいまい状況群)で、その後、それらの出来事に関わる新しいうわさがどれぐらい広まっているかを調査したところ、うわさ群においては全体の16%の学生がうわさをしていたのに対し、あいまい状況群では66%、うわさ+あいまい状況群では76%と高くなっているという結果でした。このことより、人はあいまいな状況に置かれると不確かな情報でも誰かに伝えてしまうという傾向があるようです。

Walker & Blaine(1991)は、大学生を対象に、「学則が変更され、違反者に対する処分が厳しくなる。」という恐怖や不安を感じさせる条件と、「食堂のルールが変わり、学生ならどの時間でも利用できるようになる。」という学生の期待や願望を反映した条件で、どちらのうわさが広がりやすいかを調査しました。その結果、願望条件よりも恐怖条件の方のうわさが多く広まることが明らかになりました。これは、以前の記事で紹介したネガティビティ・バイアスの影響も考えられます。人はどうしても良い情報より悪い情報の方を重要視する傾向にあるようです。

Jaeger, Anthony, & Rosnow(1980)では、大学生を対象に、「期末試験の最中にマリファナを吸っていた学生がいる」という情報を伝え、そのうわさの伝達度を調査しました。この時、以下の3つの要因についてその影響力を調べています。
1. 不安度
事前調査により、その噂を聞いた学生がその時不安を感じていたか(高不安条件)、感じていなかったか(低不安条件)。
2. うわさの信用度
うわさを聞いた後で、教室内で別の学生(実験者のサクラです)が、「その可能性は高い。」と噂の内容を支持する条件(高信用条件)と、「それはありえない、でたらめだ。」と噂の内容を否定する条件(低信用条件)
3. うわさの発信源
うわさがもたらされるのが、大学の先生(高権威条件)か、別の学生か(低権威条件)

この結果、不安を感じている人で、その情報が信用できると思っている時ほど、うわさをより多くの人に広めている傾向が見られました。
ただし、うわさの発信源が権威のある人物である場合は、不安や信用度に関わらずうわさが広まる傾向にあるという結果が見られました。

災害などの発生時は誰しも不安な状況ですので、不確かな情報でも誰かに伝えてしまう傾向があるようです。
また発信者が政府や専門家、有識者といった権威のある人たちだと、不安や信用度に関係なく情報を広めていたということも驚きの結果ですね。

「シンゴジラ」では右往左往する政府首脳陣の姿もだいぶ描かれていたかと思いますが、彼らの情報がいかに民衆に影響を与えるかがわかるような実験結果ですね。
また、誰でも発信者になれるということの怖さを改めて実感しました。
冷静に、客観的に情報を判断できるようにしたいものですね。

[引用]
Allport, G. W. & Postman, L.(1947). The psychology of rumor. New York: Henry Holt.

Jaeger, M. E., Anthony, S., & Rosnow, R. L.(1980). Who hears what from whom and with what effect: A study of rumor. Personality and Social Psychology Bulletin, 6, 473-478.

Schachter, S. & Burdick, H. (1955). A field experiment on rumor transmission and distortion. Journal of Abnormal and Social Psychology, 50, 363-371.

Walker, C. J. & Blaine, B. (1991). The virulence of dread rumors: A field experiment. Language and Communication, 11, 291-297.
プロフィール

Author:すぷーとにく0107
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中の人は、北海道は札幌市在住です。
映画館で年間200本は映画を観ます。
当ブログでは、映画のレビューをしつつ、勉強している心理学ネタでも書いていけたらいいなと思っています。

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