「モアナと伝説の海」から考える承認欲求



本作では、海に愛されし少女モアナが島の人々を救うため、伝説の半神マウイとともに大海原へと旅立つのですが、モアナと出会った当初、マウイはかなり尊大な態度を取っています。
もちろん自分が半神(半分は神様)ということもあるのでしょうが、それ以上に虚勢を張っているようにすら映ります。

序盤から、音楽に合わせて「どういたしまして!」と言い、相手に感謝の意を強制したり、自分の存在感をやたらとアピールしたりします。

このように、他人から認められたいという気持ちのことを、承認欲求と言います。
最近ではSNSで過度に自己アピールしたり、「いいね!」などのリアクションを必要以上に求めたりするのも承認欲求の現れだとも言われていますが、本来は社会的に生きていく上での重要なエネルギーの源泉とも考えられていました。

Maslow(1943)は欲求の段階説を提唱し、人間の欲求は階層構造をしており、生存欲求(生理的欲求)、安全欲求(安全に対する欲求)、所属欲求(愛情と所属に対する欲求)、尊厳欲求(自尊心に対する欲求および他者から認められたいという承認欲求)、自己実現欲求(自身の目標達成に対する欲求)の5つが存在しているとしました。
尊厳欲求に、他者から認められたいという承認欲求が含まれています。
今でこそ、Maslowの欲求段階説は、その区分の厳格さ(Maslowは生存欲求が充足されてから安全欲求が芽生える、というようにこの階層にこだわっていました)は否定されてきていますが、それでも人間の根源的な欲求の1つとして、承認欲求があるということには変わりはありません。

そこで今回はマウイのキャラクターを題材に、承認欲求について考えて見たいと思います。

1. さみしがり屋は承認欲求が強い!

諸井(1985)では、高校生を対象に孤独感と自己意識についての関連を調査したところ、特に男子の高校生において、孤独感が高い者は、自尊心などの評価が低くなっていることがわかりました。
つまり、自分を孤独だと感じる者は自分で自分の価値をうまく見出すことができないということです。
マウイがモアナに偉そうな態度で接するのも、寂しさを覆い隠すためだったのかもしれませんね。

2. 自己中心的、自分好きな人は、承認欲求が強い?

自分が一番、自分が大好きなんてタイプの人は承認欲求が強いのではないかと思われがちですが、小塩(1997)では、自己愛傾向とまわりから注目されたい、褒められたいという注目・賞賛欲求の関係を調査したところ、自己愛の強い者は、注目・賞賛欲求が低いという予想とは異なる結果になりました。
これは、自己愛が高い人は自分の自分に対する評価がそもそも高いため、特に周りから注目されようとしたり、賞賛を集めようとしたりする意識が低いからだとも考えられています。

逆に言えば、自分で自分の評価がうまくできないからこそ、他人の評価、とりわけ他人に注目されたり褒められたりしたいということにつながるわけで、昨今のSNSで犯罪行為になるような武勇伝自慢だったり、バイト先での度を超えた行為なりをアップするのも、そういった自信のなさの現れかもしれません。

マウイも神から授かった釣り針が壊れて、自分の変身能力が失われてしまうと、それとともに自信さえも喪失したようになってしまいました。しかし、最終的にはモアナを助けることで自信も回復しているように、やはり他人の評価よりもまずは自分自身の評価をしっかりと認識し、自分らしさを持つことのほうが大切ですね。


[引用]
Maslow, A. H.(1943). A theory of human motivation. Psychological Review, 50, 370-396.

諸井克英(1985). 高校生における孤独感と自己意識. 心理学研究, 56,
237-240.

小塩真司(1997). 自己愛傾向に関する基礎的研究 -自尊感情、社会的望ましさとの関連-. 名古屋大學教育學部紀要. 心理学, 44, 155-163.
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「モアナと伝説の海」感想。


(公式HPより引用)

[story]
神秘的な伝説が息づく南海の楽園、モツゥヌイ島。16歳の少女モアナは、海と特別な絆で結ばれていたが、外洋に出ることを禁止されていた。ところが、半神半人のマウイが命の女神テ・フィティの“心”を盗んだために生まれたという暗黒の闇が島にも迫ってきて、モアナは祖母タラに背中を押され、マウイを見つけ、テ・フィティの盗まれた“心”を返すべく大海原に旅立つのだった・・・。

ディズニー最新作は、「リトル・マーメイド」「アラジン」のジョン・マスカー&ロン・クレメンツ監督が、南海の楽園を舞台に少女モアナと伝説の半神半人マウイの冒険を描いたアニメ。

2010年、「塔の上のラプンツェル」あたりから、ディズニー映画の方向性なのか、これまでのヒロイン像から変化してきたように思います。
いつか白馬の王子様が迎えに来てくれるのを待つ深淵のお姫様、から、個性を持ち自ら冒険に乗り出す積極的で勇敢な女性へと変わってきています。

2013年の歴史的ヒット作「アナと雪の女王」でも、アナとエルサの姉妹という2人の個性としてかつてのお姫様像(エルサ)と新しい女性像(アナ)の療法を描いていました。

そして本作ですが、主人公はさらなる進化を遂げています。
白馬の王子様を待つ系→自分から白馬の王子様を探す系自分で白馬に乗っちゃう系、なんてたとえると分かりやすいかと思いますが、主人公のモアナは幼い頃から海に愛され、自分もいつか大海原に乗り出したいという気持ちで一杯で、やがて島の人々を救うため大航海へと旅立ちます。

モアナ(アウリイ・クラヴァーリョ、日本語版は屋比久知奈)は島で幸せに暮らしながらも海への憧れが強かったのですが、父トゥイ(テムエラ・モリソン、日本語版は安崎求)はかつて仲間を失った苦い経験から、外洋へ出ることを禁止していました。

やがて、島が伝説の魔物テカァによって魚が取れなくなり農作物も育たなくなってしまったため、モアナは意を決して外洋へと舟を漕ぎ出すのですが、高波にさらわれなんとか命からがら島へと戻ってきます。

そんな様子を見ていた祖母のタラ(レイチェル・ハウス、日本語版は夏木マリ)から、テ・フィティの心を渡され、伝説の半神マウイを見つけ出し、ともにテ・フィティの心を返しに行くことを告げられます。

こうしてモアナはマウイを探し、マウイとともに大海原の大冒険ということになるのですが、このあたりはまさにディズニーの真骨頂で、クライマックスまで観ているものをグイグイと引き込んできます。


圧倒的なビジュアル

舞台が海ということで、波や、水の飛沫などの表現はもちろんですが、モアナの髪などの細部に渡るまでのCGの完成度が高い!さらにモアナは海の不思議な力によって守られているのですが、それもまた水の独特な表現によって描かれています。
ジェームズ・キャメロン監督の1989年の映画「アビス」でも海底で出会う不思議な生命体として水の表現が素晴らしかった記憶がありますが、そこから20数年たって、CGアニメでも違和感なく再現できるようになっているのですね。

敵も味方も!魅力的なキャラクターの数々

本作もキャラクターの面で魅力的な存在は多いですね。
敵として最初に出てくるのは、海賊カカモラ。彼らはココナッツの実のような生き物で集団でモアナとマウイに襲い掛かってくるのですが、どこかコミカルな上に、このシーンは完全に「マッド・マックス 怒りのデスロード」!
次なる敵として出て来るタマトアはカニの怪物ですが、光っているものを集め、それで自分を装飾するという自己顕示欲の強いキャラになっています。同じく光りもの好きニフラーに可愛さでは敵いませんが、インパクトのあるキャラクターとなっています。
それからモアナと一緒に旅することになるヘイヘイというニワトリ。
こちらはディズニー映画の相棒らしくなく、全く良いところなしのドジっ子なのですが、それが終盤に・・・。
そして、マウイの全身には多くのタトゥーが刻まれているのですが、これは半神である彼がこれまで人々にしてあげたことが伝説として体に刻まれていて、リアルタイムで変化していくマウイのタトゥーもまたマオイ以上に雄弁にコミカルに語ってくれます。

モアナとマウイの成長の物語

そしてディズニー映画といえば登場人物の成長が描かれることも多いのですが、本作でもバッチリ描かれています。
モアナはたどたどしい航海技術だったのですがマウイに学ぶことで徐々に舟の操縦がうまくなっていきます。一方のマウイも最初は尊大な態度を取っているばかりなのですが、相手の心を理解するようになり、さらには失っていた自信も取り戻すようになります。

意図的なリフレイン

本作では同じような表現、同じような描写が繰り返し出て来る印象があります。しかし、その意味合いが全く異なっているのです。
モアナは最初、好奇心から外の海に出たいと思っていましたが、やがて、島のため、人々のために海に出るという使命感を持っての行動となっています。
マウイもモアナと会った当初は尊大な態度で、何もしていないのに「you're welcome!」(どういたしまして!)と言っていたのですが、終盤に出てくる同じセリフはまさに言葉通りの意味合いとなっていました。
そして主題歌「How Far I'll Go」は劇中でも何回か流れますが、序盤は果てしない世界への希望を表しているかのようですが、終盤は目的を果たすことが出来ない失意を表しているかのようで、これもまた場面によって表されている心情が異なっているのです。

Know Who You Are

こちらももう一つの主題歌と言える劇中歌ですが、自分が何者か、というのはまさに本作のテーマです。
モアナは序盤から自由に冒険に出たい本心と、将来の村長として人々を守っていかなければならない使命とに揺れています。これはラストのモアナにも通じていきます。
一方のマウイも、半神として尊大な態度をとっていましたが、神に与えられた釣り針の効力を失ったことで自信喪失し自分自身の存在意義すらも疑問に思ってしまいます。そんな彼もモアナに認められ、さらにモアナを助けることで自信を回復していくのです。


という非常に素敵な冒険譚に仕上がっているのですが、不満があるとすれば日本版のポスターや映画の売り方ですね。
海に愛されし少女モアナ、というのをピックアップしているのはいいのですが、海と戯れるファンタジーみたいな雰囲気を醸し出していて、ポスターからはマウイの姿を排除しています。
これ冒険物語だから!なんなら「マッド・マックス」だから!
変にハートマークやらせるぐらいならV8ポーズにしろや!
・・・

あ、すいません、思わず我を失っちゃいました。
ディズニー映画はどうしても女性客の割合が多く男性客の足が遠のく傾向があったのでオリジナルではあまり男性、女性を意識させないデザインなのですが、その意義が日本版では感じられないのが残念ですね。

というわけで、男性でポスターからなんとなく敬遠していた方はぜひ御覧ください!

「グリーンルーム」から考える組織コミットメント



「グリーンルーム」では、売れないパンクバンドの主人公たちがネオナチの巣窟にもなっているライブハウスの楽屋で死体を発見してしまったことから、そこに閉じ込められ、ネオナチ軍団からの決死の脱出を試みるという作品でした。

本作がここまで評価された要因の1つとして、主人公たちと敵の設定があると思うんですよ。
まず主人公たちは売れないパンクバンドで、ライブハウスに行くにもガソリンを入れるお金がないから停めてある車から盗み出したりもしています。無名のバンドなので、このライブハウスで失踪したとしても誰も気に留めないというのが、彼らの命を保証していないことになります。

そして、敵はネオナチ軍団という設定なのですが、これが極めて秀逸。
白人至上主義とか、ネオナチの極右的な思想を取り入れているというわけではないんですが、彼らが目的のためには手段を選ばない、という姿勢が打ち出されています。

自分が所属している組織や集団に対して、心理的な距離を近いものだと捉え、組織そのものは従事する仕事や作業内容、さらには組織の目的が自分の考えや行動理念とどれぐらい一致しているかによって決まる組織への志向性のことを、組織コミットメントと言います。

Allen & Mayer(1990)では、組織コミットメントを以下の3つに分類しています。

1. 情緒的コミットメント
自分が所属している組織や集団に対して、どれぐらい愛着を感じているか、組織の持つ価値観や目標が受容でき、その組織の一員として活動したい、組織に所属していたいという気持ちがどれぐらい強いか。

2. 存続的コミットメント
その組織や集団を離れることによるリスクが大きく、辞めることによるデメリットを回避すること自体が所属の目的となりうるか。組織を離れた際に新たに所属する組織や集団などの選択肢が少ないかどうか。

3. 規範的コミットメント
その組織や集団に所属することに義務感を感じたり、組織を辞めることに罪悪感を感じたりするか、辞めた方が良いと考えられる状況でもその組織に所属していたいと感じるか。

これらの組織コミットメントが高い人ほど、集団に対して貢献をすることが多く、メンバーの組織コミットメントが高い=組織のパフォーマンスが高いということにつながると言われています。

ただ、組織コミットメントが高いことでまた新たな問題が生じる場合もあります。
特に、規範的コミットメントが高すぎることで、たとえ自分にとっても良くない状況や境遇であるにも関わらず、その組織をやめられないということに陥りやすくなります。
いわゆるブラック企業でもその会社を辞められないというのは、この規範的コミットメントの影響が強いと言われています。

また、本作のネオナチ軍団のように、極端な意見の人物が集団を形成することで、その集団の考え方や判断、行動も極端なものになりやすいという傾向があることも知られています。

このことは集団極性化というのですが、以前のこちらの記事「ちはやふる」から考えるチームワークと集団極性化」で書きましたので、興味のある方はぜひそちらも読んでみてください。

人種問題とかを抜きにして、極端だけど統率の取れた危険な集団に囲まれているのだから、主人公たちの絶体絶命なところがわかりますね。

[引用]
Allen, N. J., & Meyer, J. P. (1990). The measurement and antecedents of affective, continuance and normative commitment to organization. Journal of Occupational Psychology, 63, 1-18.

「グリーンルーム」感想。


(公式HPより引用)

[story]
マイナーなパンクバンド、"エイント・ライツ"は、知人の紹介でようやく出演が決まったオレゴンの僻地のライブハウスに出向く。しかし、そこは狂気のネオナチ集団の巣窟だった。 殺伐とした雰囲気の中、演奏を終えたバンドメンバー達だったが、バックステージで殺人現場を目撃してしまう。そのまま楽屋に閉じ込められてしまったメンバーに、ライブハウスのオーナーは口封じのために始末するよう命令された部下たちが襲い掛かってくる・・・。

監督は「ブルーリベンジ」で注目の新鋭ジェレミー・ソルニエ。
出演は、不慮の事故で亡くなった「スター・トレック BEYOND」のアントン・イェルチン。共演はイモージェン・プーツ、アリア・ショウカット、パトリック・スチュワートら。

グリーンルームとは、楽屋のことで、本作はまさにこの楽屋が舞台となっているソリッド・シチュエーション・スリラーなわけです。

「ブルーリベンジ」は不勉強ながら未見なので、本作がこの監督作の初めてとなりますが、はたして。

ていうかもうね、パンクバンドとネオナチの戦い、楽屋に閉じ込められるソリッド・シチュエーション、という設定だけですでに面白いこと決定!と思ってしまうんですが、ソリッド・シチュエーションで話題になった作品といえば、まずは「CUBE」ですね。
気がついたら謎のキューブ状の部屋に閉じ込められた主人公たちがトラップだらけの空間を脱出するという設定でした。
それから、「SAW」ですよね。
これも気がついたらバスルームにつながれていた2人の男と1つの死体。なぜこんな状況にいるのか、どうしたら脱出できるのかを探すというものでした。

この2作に共通しているのは、不条理な状況ながら、その詳細な説明や背景を極力カットし、決死の脱出を試みるという一点のみにストーリーの軸を絞っているというところですね。

そして、本作もまたプロット自体は極めてシンプルです。
ネオナチ軍団に閉じ込められた楽屋から決死の脱出を試みる、これだけです。
でも、面白いんです!

バンドが知人のつてで紹介されたライブハウスが、ネオナチの巣窟というだけでもヤバイ雰囲気ムンムンなんですが、そこで演奏する曲もネオナチをディスってるような歌詞だったりと、ピリピリと緊張感が高まっていきます。

なんとか演奏を終えて、一安心、と思った矢先、忘れ物を取りに戻った楽屋でネオナチバンドの追っかけ的な女性の死体が!
思わぬ形で目撃者となってしまったバンドメンバーは、そのまま楽屋に監禁されてしまいます。
携帯電話も没収されてしまい警察はおろか外部との連絡もできなくなってしまいます。
切り札と言えば、ローディー(殺人の犯人?)から銃を奪い、それを武器に彼を人質にしていることだけです。
また、ネオナチたちも、この殺人の犯人を主人公たちになすりつけようとしているので、いきなり銃を乱射ということはしてこないということだけが救いです。

という絶体絶命の状況なのですが、囚われの身の彼らは外部で何が行われているかはわかりません。
これは我々観ている側のみが第3の視点として知ることができるのです。このあたりはコーエン兄弟の「ブラッド・シンプル」なんかを思い起こさせますね。

数的には圧倒的に不利、しかも相手は武器もたくさん持っている、この絶体絶命の状況からいかに脱出するのか?

敵の設定をネオナチにしているところで得体の知れない恐怖感を高めることに成功しています。
最初に警察もやってくるのですが、チンピラ同士の小競り合いが原因だったとして、ネオナチの部下にほんとにナイフで怪我を負わせて、犯人役も用意することで警察を信用させる狡猾さ、周到さを見せつけることで、主人公の置かれた状況をより絶望的なものへと高めています。

終盤はややトーンダウンしますが、ここまでの緊張感と、(おそらく)限られた予算の中ながらも良く出来た設定とでグイグイと引き込んでくれます。
まだ40歳と若い監督なので、今後の作品も期待ですね!

「たかが世界の終わり」から考えるきょうだいの関係性



「たかが世界の終わり」では、劇作家の主人公が、自分の死期が近いことを知らせるために、12年ぶりに帰った故郷で、家族との距離感や隔絶を描いた作品になっていました。

主人公のルイは、とりわけ兄のアントワーヌからは事あるごとに言いがかりをつけられ、それが家族の口げんかの火種ともなっていました。

ということで今回は、きょうだいの関係性についてです。

Mazumder(2008)によれば、兄弟が両方とも、経済的、教育的に成功をおさめるケースがほとんどなく、どちらか一方が成功しているというのが半数のパターンで、残りの半数はどちらも成功とは言えないというパターンであったそうです。
本作でもルイは売れっ子作家として成功を収めていますが、アントワーヌの方はそれほど裕福な感じには見えません。
この原因としては、親は自分の子どもに対して、期待できそうな方にシフトした投資をする傾向がある、つまりは期待できる子には塾に通わせたり、家庭教師をつけたりする一方で、期待できない子にはそういったことをしないというわけです。
わたしも姉がいるのですが、塾とか留学とか行っていたのは姉の方ばかりだった記憶が・・・(;´Д`)

本作では親の養育態度にどのような違いがあったかはわかりませんし、ルイとアントワーヌの対立は他にも原因があるのですが、このような経済的な格差、というよりは境遇の差といった方が良いかもしれませんが、それがこの関係に拍車をかけたのは一理あるでしょうね。

このように、きょうだいの関係において、親の接し方や育て方に差があることで、その対象への嫉妬心がコンプレックスとして他者との関係にも影響をあたえることを、カイン・コンプレックスと言います。
アントワーヌがルイに限らず癇癪持ちで激昂するタイプなのも、ここに原因があるかもしれませんね。

Lampi & Nordblom(2009)では、きょうだいの片方が経済的に成功することで、満足度が高まる一方で、もう一方のきょうだいは将来的な不安を抱く傾向が強いということが示されています。

このあたりは西川美和監督作「ゆれる」の兄弟関係にも似ていますね。東京でカメラマンとして成功した弟と、田舎でほそぼそとガソリンスタンドで働く兄という構図がまさに本作とも合致しています。

このように、きょうだい間の格差の原因は、親がきょうだいを比較したり、片方を優遇したりすることで浮き彫りになっていくのですが、そうでなくとも一番身近にいる他人として、本人同士が比較しあうのは極めて自然なことです。
このきょうだいの関係が良好なものである場合には、その競争もお互いを高め合う1つの材料となります。
ルイとアントワーヌはうまく行かなかったようですが、ぜひとも良い化学反応を起こせるような関係でありたいですね。

[引用]
Lampi, E. & Nordblom, K.(2009). Money and success – Sibling and birth-order effects on positional concerns. Journal of Economic Psychology, 31, 131-142.

Mazumder, B.(2008). Sibling similarities and economic inequality in the US. Journal of Population Economics, 21, 685–701.

「たかが世界の終わり」感想。


(公式HPより引用)

[story]
病気で自分の死期が近いことを知らせるために、12年ぶりに故郷に帰った人気作家のルイ(ギャスパー・ウリエル)。母のマルティーヌ(ナタリー・バイ)と妹のシュザンヌ(レア・セドゥ)は戸惑いながらもオシャレをして帰りを待ちわびていた。浮足立つ2人とは対照的にそっけない態度の兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)だったが、その妻で初対面だったカトリーヌ(マリオン・コティヤール)は優しく接してくれる。当たり障りのない会話をしながらも、なかなか病気のことを打ち明けられないルイだったが・・・。

「わたしはロランス」「Mommy/マミー」のグザヴィエ・ドラン監督が、38歳の若さでこの世を去ったフランスの劇作家ジャン=リュック・ラガルスの戯曲を豪華キャストで映画化した家族ドラマ。

天才。

良く使われる表現ですが、個人的にはヤベエ!とかスゲエ!とかと並んでなんとも陳腐な褒め言葉のようにも感じてしまって、使うといかにも自分のボキャブラリーの貧困さを示すようで嫌なのですが、ふとして、この言葉以外の形容が思いつかない存在がいます。

たとえば先日の記事「虐殺器官」の原作者、伊藤計劃なんかもそうですが、本作の監督グザヴィエ・ドランもまさしくそれに該当する人物です。
「マイ・マザー」を監督、主演し映画化したのが弱冠20歳のときで、その頃からカンヌ映画祭で絶賛されると、その後も家族、とりわけ母親との関係に悩む多感な青年の姿を描く作品を次々と映画化しています。
そんな彼の最新作が本作「たかが世界の終わり」となりますが、「トム・アット・ザ・ファーム」以来となる自分の脚本ではなく戯曲の映像化となりました。

グサヴィエ・ドラン監督の作品の特徴として、家族を中心に据えて、(セクシャルマイノリティなどの理由により)周囲に理解されない、打ち解けられない人物の葛藤がテーマになっているのですが、それ以上に、その独特な表現技法でも話題となっています。
前作の「Mommy/マミー」では、画面のアスペクト比を1:1という正方形のサイズにすることで、独特の閉塞感を打ち出すことに成功しています。
さて、本作はどのようになっているのでしょう?

ここからレビューになっていますが、非常に奥の深い作品ということもあってネタバレも含みつつの考察となります。
未見の方はぜひ映画鑑賞後にお読みください。また、一考察なので解釈が間違っていたり、実際と違っていたりという可能性も大いにありますので、ご理解ください。


本作では、主人公のルイが12年ぶりに故郷に戻るところからスタートします。その目的は、自分の死期が近いことを家族に伝えること。早朝の空港で時間を潰し、タクシーで実家に戻ることにしたルイに、待ち受ける家族は大慌てで準備をします。
母親のマルティーヌは料理の準備をしながらも自分のメイクも気にしていて、マニキュアが乾かない!と焦っています。
妹のシュザンヌも母に負けじとおめかしをしてルイの到着を待ちます。
一方、常に苦虫を噛み潰したような表情を見せるのは兄のアントワーヌ。そして彼の機嫌を気にしながらも初対面となる義理の弟を待ちわびるアントワーヌの妻カトリーヌ、というのが家族構成で本編の登場人物全員(!)です。

で、彼らが感動の再会を果たした・・・という展開ではなく、このあとは地味な会話のシーンが続いていきます。
この会話において登場人物の関係性が分かってくることになります。

当たり前ですが、本来家族が再会した時に、「オレがルイのアニキのアントワーヌだ。よろしくな!」なんてことは言いませんよね?
本作でもルイが初対面となるカトリーヌ以外は関係性はおろか名前すら名乗らないので、事前情報がない状況では何一つわからない設定になっています。
自分もアントワーヌは最初は父親役かとも思いましたし(;・∀・)
映画が進むに連れて、それぞれの関係性が明らかになっていきます。

妹、シュザンヌ

彼女は純粋にルイが帰ってきたことを喜ぶ存在です。
彼女が幼い頃にルイは家を出てしまっており、たまに絵葉書をくれる優しい兄、脚本家として成功を収めている憧れの兄といった見方なので、母と鏡台の前を奪い合いながらいそいそとおめかしする気持ちも頷けます。
それだけにルイの帰郷を快く思っていない兄アントワーヌとは激しい口論を繰り広げます。
その服装をアントワーヌに「売春婦か!」と言われるように派手な格好をしており、はすっぱな性格をしています。

兄、アントワーヌ

妹とは対照的にルイの帰郷を快く思っていません。
序盤では朴訥で無神経なキャラクターなのでそのように見えて、それゆえ浮かれ気分の妹や母親にも毒づくのですが、やがてそれがルイに起因するということが分かってきます。

母、マルティーヌ

彼女もまたルイの帰郷を喜び、手料理を用意しながら自分のオシャレも気にするといった浮かれた雰囲気を出しています。
ただ、12年も帰ってこなかった息子の突然の帰郷には何か理由があるのではないかと、心の底では思っているようです。
シュザンヌとアントワーヌの衝突もなんとか穏便に済ませようと場の空気を取り持つのに必死ですが、どうしても昔話(ルイが12年も帰ってきていないので仕方ないのですが)にばかり花を咲かせてしまいます。

兄嫁、カトリーヌ

唯一の肉親ではない存在で、ルイが故郷を離れている間にアントワーヌと結婚したので、ルイとは初対面となっています。アントワーヌとは対照的に内向的な落ち着いた性格のキャラクターとなっています。その性格ゆえか、今回の帰郷で唯一ルイが心を許して本音で話しているような印象でした。

ルイ

彼は劇作家として成功しますが、病気により死期が迫っています。そのことを伝えるために12年ぶりに帰郷します。
アントワーヌやカトリーヌの話、ルイの当時のエピソードから、ゲイであることが分かります。
非常に温厚な性格で、アントワーヌに怒鳴られたり、アントワーヌとシュザンヌが口論したりしているのを黙って微笑みながら見つめています。

マルティーヌが話題を探し、アントワーヌが突っかかり、シュザンヌが癇癪を起こし、カトリーヌがなんとか場の雰囲気を和らげようとするのを、ルイは微笑みをたたえて傍観しているといったある意味地獄の団らんが繰り広げられます。
ルイもルイで本音を出すことはなく、今回の目的である「自分の死期が近いことを伝える」こともままならないままに、他愛もない会話が繰り広げられていきます。
この会話の多さはもちろん戯曲が原作であることにも由来するのかもしれませんが、何かしゃべっていないと気まずい感じにある関係性とも受け取れます。
知らない人と同じ空間にいると気まずいから、何か話題を探す・・・そんな感じに似ています。

なんだかストーリーらしいストーリーがないと思われるかもしれませんが、展開に影響を与える要因について、以下に書いていきたいと思います。


父親の不在とルイの家出

これは本作に限らずグザヴィエ・ドラン監督作に共通しているのですが、父親が物語に登場してきません。本作でも詳細は明らかにはされませんが、死去したことになっています。唯一、ルイの回想で父親に遊んでもらっているようなシーンがあり、ルイもかつて住んでいた家に行ってみたいと言うように、ルイの父親へのイメージは良いものなのでしょう。
対して、アントワーヌからすれば父親を亡くしたことで男手一人という状態になって、家族を支えなければならないということもあったでしょうが、ルイがゲイであるということでいろいろ形見の狭い思いもしてきたのでしょう。その風当たりもあって自分が大変なのに、ルイは故郷を離れ、家族からも離れて、悠々自適に暮らしているというのが我慢ならなかったということは容易に想像がつきます。


音楽は雄弁に語る

なかなか本心をさらけ出さない家族ですが、それを代弁するかのように、音楽は直接的に心情を表現してきます。
オープニングは、フランス人歌手のCamileが歌う「Home is where it Hurts」という曲なのですが、タイトルからして、"家は傷つける場所"ってなってますからね。歌詞でも居心地の良い場所とは限らないんだよっていう内容になっています。
中盤、キッチンで会話をしている時にマルティーヌが昔話を懐かしそうに語るときに、みんなで踊ったのよ~、といって流れるのが、O-Zoneの「Dragostea Din Tei〜恋のマイアヒ〜」!
日本人なら、のまのまイェイ!っていうあの癖になるフレーズでおなじみの曲が思いっきり流れます!(若い方は知らないかもしれませんので、参照はコチラ!のまのまイェイ!
この場違い感もまた状況に絶妙にマッチしているのがすごいところ。
グザヴィエ・ドラン監督はもともと音楽の使い方も大胆なところがあって、前作「Mommy/マミー」でもoasisの「wonderwall」を重要なシーンで使っています。ちなみにこの曲が使われているシーンは映画全体を通して、いや、その年に見た映画すべてひっくるめても一二を争うぐらいに大好きなシーンです。ぜひ「Mommy/マミー」本編でお確かめください。
そして、エンディングに流れるのがMobyの「Natural Blues」。
こちらでは、「神よ、これはひどい事故だ。」と繰り返し歌われていて、彼ら家族の、そしてあのラストシーンを象徴しているかのようです。そして「神様以外は誰も知らない。」というのは、まさにルイの心情を表していると言えるでしょう。


ルイの死期が近いことを知っているのは・・・

ルイの目的は、自分の死期が近いことを知らせることでしたが、結果的には家族の前で言い出すことができず、アントワーヌの激昂に半ば追い出される形で家を後にします。
そのため、この事実を明確に知った人物は誰もいません。
特に、シュザンヌはそもそもルイが帰ってきた理由すら思いついていなかったでしょう。
マルティーヌも直接的な確認はしていませんが、12年帰ってこなかった息子が突然帰ってくるからには何らかの理由があるぐらいには気づいているのでしょう。
この事実に目ざとく気がついていたのはカトリーヌでした。
彼女はルイに「あとどのぐらい?」とぼかしつつも直接的な質問を投げかけています。
最後にアントワーヌですが、彼も知っていた可能性は高いです。
終盤でルイに、かつての恋人が死んだことを伝えるシーンがあるのですが、もしその恋人がエイズだったとしたらルイもエイズの可能性があるから・・・と考えて、ルイも病気なのではと考えていたのかもしれません。だからこそ、カトリーヌがルイと挨拶のキスをするのを躊躇したり、12年ぶりの家族の集合にアントワーヌとカトリーヌの子どもたちを連れてきていないのかもしれません。


名前の意味するもの

ルイ、マルティーヌ、シュザンヌ、アントワーヌ、カトリーヌと、本作の登場人物のうち、ルイだけ名前の系統が違います。
他はみんな"ヌ"(原語だと、"ne")で終わっています。
これもまた、ルイが故郷を飛び出して、家族とは離れて暮らしているということ、今はもはや家族の一員としては見られていないことを暗示しているかのようです。
カトリーヌは自分の子どもにルイの名前をもらったことを告げるシーンがあるのですが、その時に、「あなたの家では親の名前を子どもにつける習慣があるのね。」みたいなことを言っていました。
ここからは推測ですが、おそらく父親の名前がルイなのではないでしょうか?アントワーヌからすれば父親は自分ではなく弟の方に自分の名前をつけた=弟の方をより可愛がっていたと思い、ルイの脚本家としての成功以上に、父親の愛情を一手に受けていたところに嫉妬していたのかもしれません。ルイという名前も連想されるのはフランス国王のルイで、ルイ○世というように一族で名前が引き継がれていっているのもメタファーかもしれません。
それと同時に、ルイはゲイだから自分の直系の子どもを持つことができないから、アントワーヌとカトリーヌの子にその名前をつけたということも読み取れます。


たかが世界の終わり

元々の戯曲のタイトルは邦題では「まさに世界の終わり」となっていたのですが、映画の邦題は、「たかが世界の終わり」となっています。英語タイトル"only"(フランス語の原題だと"juste")の訳し方次第かもしれませんが、自分は映画版のタイトルの方がしっくりときました。
ルイは、自分の死期が近いことを知り、12年ぶりに家族の元に帰ってくるわけですが、温厚そうな性格とは裏腹にかなり自分本位で自己中心的なところがある存在です。
ここで家族の前で自分の死を告白することでやはり彼は家族の中心となります。まさに悲劇の主人公です。
家族と話すときにも自己陶酔的な部分があって、アントワーヌに空港のカフェでの出来事を話した時もそんな雰囲気でした(これはアントワーヌに、「オレがお前のカフェの話など聞きたいとおもうのか?」と一蹴されていますが)。
最後まで物語の主人公でいようとしたルイに対し、それを遮るのがやはりアントワーヌでした。夕食のときに告白をしようとするルイを「約束あるって言ってたよな。空港まで送っていってやる!」と強引にその告白の場面を打ち破ります。
それは自分に酔っているようなルイに、自分たちの家族の必死の生き様を演出の1つにさせないよという意思の現れのようでした。
その気持ちを汲んでくれないシュザンヌや、その気持ちを理解しつつもやはり息子であるルイを可愛いく思っているマルティーヌが声を荒げたことに対して、感極まったアントワーヌの嗚咽混じりの訴えがいたたまれません。

父親の死や兄の結婚といった家族の重要なイベントにも一切顔を出していないルイは、家族からすればもう死んでいたのも同然なんだ、という思いが現れているかのようで、たとえルイが死んでしまうことになっても、それはルイにおいては、たかが世界の終わりにすぎないのだということでしょう。
アントワーヌの嘆きとともに、ルイは自分のしてきたことの罪深さを実感するとともに、やや自罰的な意味合いもこめて、たかが世界の終わりと思ったのかもしれません。


とまあ、いろいろあとから考えさせられる、考えたくなるタイプの映画ではあります。
映画にそういう見方というか魅力というか、それを感じない人からすれば、単に家族が差し障りのない会話をしては口論になるというミニマルな世界をやたら登場人物のアップで見せられるということでうんざりしてしまうかもしれません。

本作のようないろいろあとで議論を呼ぶタイプの映画も、何も考えずに観るだけで楽しめる某トリプルXのような映画も、イケメンと可愛い子がイチャコラし続けるスウィーツな映画も、当ブログでは分け隔てなく取り上げていく所存でおりますので、今後ともよろしくお願いします!

「ラ・ラ・ランド」から考えるピークエンドの法則



「ラ・ラ・ランド」はミュージカル映画でありながら、肝心のミュージカルシーンは、オープニングの度肝を抜くようなハイウェイでのシーンがあり、その後はパーティーに向かうシーン、ミアとセブが夜景をバックにタップダンスをするシーン、プラネタリウムで空中を舞い踊るシーンと単発で出てくるぐらいです。

これは観ている側からすれば非常にフラストレーションが溜まる状態で、映画の方も2人はどうなるの???という状態でモヤモヤを抱えつつラストシーンを迎えることになります。

Kahneman(1999)は、実験参加者に以下の2つの条件をそれぞれ体験してもらい、もしもう一度やらなければならないとしたらどちらを選ぶかを調査しました。

A. 死ぬほど冷たい水に手を60秒ひたす。
B. 死ぬほど冷たい水に手を90秒ひたす。ただし後半の30秒は徐々に水温が上がっていく。

本来ならばAの条件の方が冷たい水に手をひたしている時間が短いので、そちらが選ばれそうですが、実験の結果は、Bを選んだ人が多くなっていました。

これは人が物事を判断したり評価したりするときには、その対象の最も絶頂である部分(ピーク)と、その対象の終了時の部分(エンド)が重要な材料となっているということを示しており、上記の実験では、ピーク(一番冷たいと感じる部分)は同様ですが、エンドでは、Bの条件の方が冷たさが多少和らいでいるため評価が高くなっている結果として、Bの条件の方が選ばれやすいとされています。

このように、あらゆる経験、とりわけ喜びや悲しみに関する出来事に対しては、絶頂期(ピーク)と終了時(エンド)が重要であるということを、ピークエンドの法則と呼んでいます。
簡単に言うと、終わり良ければ全て良し、っていうことになるんですが、本作でも中盤の我慢の時をへて、あの感動のラストへつながっているということで作品全体の評価も高まっている印象があります

デイミアン・チャゼル監督がこれを意図的にコントロールしているとしたら恐るべき才能ですね・・・。

[引用]
Kahneman, D. (1999). Objective Happiness. In Kahneman, D., Diener, E. and Schwarz, N. (eds.). Well-Being: The Foundations of Hedonic Psychology. New York: Russel Sage. pp. 3-25.

「ラ・ラ・ランド」感想


(公式HPより引用)

[story]
ロサンゼルス。女優を夢見るミア(エマ・ストーン)はカフェで働きながらオーディションを受けるもけんもほろろな毎日。ある日、ふと足を踏み入れたジャズバーでピアノを演奏しているセブ(ライアン・ゴズリング)と出会う。彼はいつか自分の店を持ち、自分の理想とするジャズを思う存分演奏することを夢見ていた。やがて2人は恋に落ち、互いの夢を応援し合う。しかし、セブが将来のための資金つくりに参加したバンドが成功し、2人は徐々にすれ違っていくことに・・・。

「セッション」で一躍ハリウッドの寵児となったデイミアン・チャゼル監督によるミュージカル。
第89回アカデミー賞で監督賞、主演女優賞をはじめ6部門で受賞しています。

アカデミー賞レースでも大本命であり、そのきらびやかな雰囲気も相まって、日本でもヒットした本作ですがはたしてその中身はどんなものでしょうか?

冒頭、渋滞したハイウェイで人々が車の上に飛び乗って踊りだすシーンで映画は始まります。
こんなにイライラするような状況においても楽しんでしまうのがロサンゼルスの、まさにLA LA LANDな状態なんだよと魅せてくれる非常に印象的なオープニングになっています。

タイトルでもあるLA LA LANDには、陶酔した、恍惚とした、我を忘れたという意味もあるようでそれを体現するかのようなシーンとなっていました。

ところが、その後のミュージカルシーンは、ミアが友人に誘われてパーティーに向かうシーン、ミアがセブと再会したあとにロサンゼルスの夜景をバックにタップダンスを踊るシーン、そして2人がプラネタリウムで空中を舞い踊るシーンと、それぞれに魅力的ではありますが、小出し感もあって、あれ?これミュージカル映画じゃないの?とすら思ってしまいました。
ただ、最後まで観終えると、このある種の飢餓状態を作り出すかのような構成があったからこそラストシーンがより一層映えるのだということが分かります。

この見ている側の気分や感情の変化、高揚感すらコントロールするような構成になっているという点で、デイミアン・チャゼル監督の手腕は素晴らしいと言わざるをえません。

その後、互いに夢追い人として恋に落ちた2人はそれぞれ励まし合いながらそれぞれの夢を追いかけていくことになります。

セブはまず実践することが重要だと考えているところがあり、最初に働いていたジャズバーでもオーナー(演じるは「セッション」の鬼教官役だったJ・K・シモンズ)の意に逆らって自分のやりたい曲を演奏する一方で、お金のためにパーティーで全く趣味の合わないバンドのバックで演奏したりもしています(曲はa-haの「Take On Me」)。

一方のミアはオーディションこそ受けているものの合格はおろか審査員にまともに見てもらえないままという失意の日々です。
生活のためにカフェで働いてはいますが、他の友人たちのようにパーティーに行って出会った人脈でなんとかしてもらおうとかを考えてはいません。

ゴールは明確だけどそれまでの道筋や手段を選ばないセブと、とにかく正攻法で自分を認めてほしいミアという考え方の違いは、やがてセブがミアと生きていくために友人のバンドに加入するという形で明確化していきます。
この友人キース(演じるはジョン・レジェンド!)のバンドはニューウェーブジャズとでも言うのか、かなり斬新なアレンジを入れた音楽なのですが、これが大ヒットとなり、セブはツアーとアルバム制作で忙しくなり、ミアとは生活面でも考え方の面でもすれ違いが生じるようになってしまいます。

一方のミアもオーディションに落ち続けている合間に自分で書いた脚本があったのですが、セブはそれを自主公演で上演するべきだと励ましてくれます。
セブの後押しもあって上演にこぎつけるも、評判は散々、客もガラガラで失敗に終わってしまいます。
しかもセブが舞台の時間に間に合わず、ショックを受けたミアはそのまま故郷に帰ってしまいます。

2人はどうなってしまうのか?
2人の夢は実現するのか?

観ている側は、この2人の夢追い物語の目撃者としてその後の展開を観ることになるのですが、先に書いたようにミュージカルシーンも少なく終盤の演出が控えめなこともあり、欲求不満状態を抱えたところでのあのラストに帰結するのです。
「セッション」でも本編のほとんどがラストシーンのための布石のようにも感じたのですが、それは本作でも同様な気がします。
これはぜひご自身でご鑑賞の上、確かめてもらいたいと思います。

ただ手放しの絶賛ができるタイプの映画ではないというのも正直な感想です。

1点目は、本作が極めてシンプルすぎる夢追い物語になってしまっていること。
ストーリー的な面白み、ケレン味のようなものはあまり感じられません。このあたりは本作がアカデミー賞の大本命でありながら、脚本賞を逃し、ひいては作品賞も逃しているということにつながっているのかもしれません。
(ただし自分はこの時点で「ムーンライト」(作品賞、脚色賞受賞)も「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(脚本賞受賞)も観ていないので、単にこれらの作品のほうが優れているということは否定できません)

一応はプロとして人前で音楽をやっていたセブはともかく、自主公演の舞台だけでミアがそこからスターダムへとのし上がっていくというのはいくら映画といってもデキすぎという印象でした。
本当の芸術は大衆には理解されないものだ、と完全に線引をされているようで、監督自身が公言する映画愛、音楽愛とも一致していないような気がしました。

もう1つは予告編の問題です。
先にも書いていますが、本作は観ている側にひたすらおあずけ、というか我慢を強いる映画になっていて、それがラストシーンで感動という形で結実していくのですが、予告編でそれが流れてしまっているので、その感動が薄まってしまった印象でした。
序盤に同様のシーンがあって、そこで予告編を観た人はあれ?ってなってしまうのですが、その前フリもこの予告編のせいで台無しになっている気がします。

予告編の製作過程がわからないので、すべての素材をもらえていなかったり映画を全編通して観る前に製作されている可能性もあるので一概に否定はできないのですが、これは予告編を全く観ないで本編を観た人の方が明らかに評価が高くなると思います(現実的にはそうとう難しいでしょうけどね)。

ともあれ、商業映画の長編2作目でここまでの作品を作るデイミアン・チャゼル監督の手腕は光るものがありますし、まだまだ若いので今後もとんでもない傑作を世に送り出してくれることを期待してやまないのです。

本作のキャッチコピーは「夢を見ていた」ですが、ミアの夢、セブの夢、そしてラストシーンで描かれた夢、これらをともに味わえることこそが、まさに夢のようでした!

「トリプルX 再起動」から考えるザンダー(ヴィン・ディーゼル)の魅力



「トリプルX 再起動」(ちなみに原題は「XXX The return of Xander Cage」ともっとダイレクトです+)では15年ぶりに本作に戻ってきたザンダーことヴィン・ディーゼルの活躍ぶりに女性ならずとも、ヴィン様抱いて~!となること請け合いなのですが、なぜそこまで魅力的と感じるのでしょうか?

Moore et al.(2013)では、先進国よりも発展途上国において、女性は、男性的でマッチョなタイプの人に惹かれるということが示されています。

これは発展途上国では普通に生きていくということが先進国よりも困難であると考えられているため、自分の子孫を残すために男性ホルモンであるテストステロン分泌の多い、いわゆる男らしい男性を好み、かつこうした男性は得てして危険を省みず自分を守ってくれる存在であるということも決め手となっているようです。

本作を観ている人が登場人物に感情移入して自分たちが危機的な状況に立たされていると思っていれば、強い男に憧れるというのもなんとなくわかる気がしますね。

そしてイケメンDJ君が案外ぱっとしないのも同じ理由で納得できちゃいますね。


[引用]
Moore, F. R., Coetzee, V., Contreras-Garduño, J., Debruine, L. M., Kleisner, K., Krams, I., Marcinkowska, U., Nord, A., Perrett, D. I., Rantala, M. J., Schaum, N., and Suzuki, T. N.(2013). Cross-cultural variation in women's preferences for cues to sex- and stress-hormones in the male face. Biology letters, 9, URL: http://rsbl.royalsocietypublishing.org/content/9/3/20130050

「トリプルX 再起動」感想。


(公式HPより引用)

[story]
世間から身を隠していたエクストリーム・スポーツ界のカリスマであるザンダー・ケイジ(ヴィン・ディーゼル)が政府の極秘エージェントとなり、「パンドラの箱」と呼ばれる制御不能な軍事兵器を悪の力から奪回しようと、最強の敵ジャン(ドニー・イェン)と戦うこととなる。スリルを求める連中から召集された新たなチーム“トリプルX”と共に、ザンダーは全世界の政府最高権力者たちをターゲットとした世界壊滅の陰謀に巻き込まれていく。

エクストリームスポーツのスターが政府のエージェントとして活躍する「トリプルX」のシリーズ第3弾。

「トリプルX」が公開されたのが2002年で、007みたいなスーツビシっと決めたスパイが潜入捜査してもあっさりバレるからバレなそうな見た目のヤツにしようってことで、政府に目をつけられたザンダーが空飛ぶバイクに乗って悪の組織アナーキー99をやっつけるってのが大まかなプロットでした。

そして第2作「トリプルX:ネクストレベル」は日本では未公開のDVDスルーに。テレビ放映はしたので自分はそれで見ましたけど。
こちらではザンダーを雇ったNSA(国家安全保障局)が何者かに襲われ、さらなる敵に対処すべくザンダーよりももっとやべえヤツを探そう、ということで服役中の犯罪者で元海軍特殊部隊のダリアス(アイスキューブ)を2代目トリプルXに指名します。そしてザンダーは、「バカンスで行ったボラボラ島で死んだ」とさらっと訃報が伝えられていました。

この2作目は全米で大コケとなったことで、ザンダーとともに新作の製作も行方不明になっていたのかと思いきや、ザンダー役のヴィン・ディーゼルが「ワイルド・スピード」シリーズをはじめヒットを飛ばしたことでGOサインが出たのでしょうかね?
かくして前作より12年ぶりとなる第3作が誕生したわけです。

はてさてその内容やいかに?

個人的にはこの「トリプルX」シリーズ、大好きなんですよね。
1作目の敵の組織がアナーキー99っていう厨二病全開の名前からしてズルいですよね。ザンダーすら、「なんだそりゃ?暴走族か?」みたいにツッコんでたし。
他にも、敵の発電所を破壊するために、ザンダー雪山にパラシュートで降り立ち、山頂めがけてバズーカを撃つ→雪崩が起きる→その雪崩をスノーボーディング→雪崩もろとも敵の発電所を破壊→新雪サイコー!っていう冗談みたいな展開とかね。
雪崩だけ起こすんなら、ただバズーカ撃つだけで良かったんじゃね?なんて疑問はありませんから。
どうせ雪崩起こすならエクストリームスポーツに勤しみたいってのがザンダーの生き方ですから!

Welcome to Zander Zone!

あ、これは当時ザンダーが自分のエクストリームスポーツのテクニックを見せていたビデオの決まり文句ですけど。

それから敵の生物兵器も世界を滅ぼす威力なのに水に溶けると中和されるっていうやたらエコロジーな設定の上に、それを潜水艇で運ぼうとしているっていうお茶目さん加減も素敵ですよねえ・・・。

・・・

っと、これはシリーズ第一作の話でした。

本作はですね、オープニングからやってくれますよ。
その随所に散りばめられた魅力を語っていこう!
例によってネタバレはたくさん出て来るが、なーに、全てネタバレしていたところで映画を楽しめることには何ら変わりはないのだから。


オープニングから世界基準。

ギボンズが新たなxXxを雇おうと白羽の矢を立てたのは、あのネイマール。ブラジル代表サッカー選手ですね。
ネイマールも意外に乗り気?と思いきやアベンジャーズへの勧誘と勘違いしていたらしくて、アベンジャーズなら乗り気なのかよ!とも思いますが、スカウトをしていた中華料理店に強盗が!
しかしそこにはネイマール。テーブルにあった茶碗を巧みにリフティングからのボレー!これが強盗にクリーンヒット!ギボンズも思わず、「ゴーーーーーール!」って叫びます!
と思ったのもつかの間、この中華料理店に人工衛星が墜落し、ギボンズもネイマールも死亡!!!


ザンダー再び。

その頃ザンダーはジャングルにある小高い電波塔からダイブ!そしてその勢いそのままに山道をスケボーで駆け抜ける!途中バスの壁面をスケーティング!
麓の村の家に飛び込むとケーブルを接続!
彼は衛生放送の電波をジャックして、子どもたちのためにサッカーの試合を見せられるようにしたのだ!
電波ジャックするついでにスケートボードは、敵の発電所をぶっつぶすついでにスノーボード、と同じ構図ですね。

「世界は君の心の中にある」

と何の脈絡もない名言をぶち込んで来ますが、こういう言葉に熱狂できるあなたはもう「トリプルX」の世界観にどっぷりハマっているといっていいでしょう。
こうして細かい説明もなくあっさりと生きていることが発覚したザンダーの前に、怪しげな男たちが現れます。
が、ザンダー、これをあっさり殲滅。このシーン必見です!ザンダーが非常にけだるい表情でテキトーに銃を乱射しています。
これはザンダーが再びNSAが自分に依頼してくる際のテストなんだと見抜いているからですが、一瞬でテストと見抜くのは1作目へのオマージュに違いない(きっとそうや)。


今度の敵さんの最終兵器は・・・

今回は序盤に悪の組織に"パンドラの箱"と呼ばれる装置が奪われたため、それを奪還するのがミッションだとNSAのジェーン(トニ・コレット)に言われます。
このパンドラの箱は何ができるかというと、世界中の軍事衛星を自在に遠隔コントロールできるというものでした。
それでギボンズも(ネイマールも)意図的に人工衛星を狙い撃ちされて殺されたとのこと。
ところで今回の敵の組織はもう少し下の方でネタバレするつもりなんですが、明確な組織名はなかったですよね?
アナーキー99ばりのものが欲しかったですね。


ヴィン・ディーゼル vs ドニー・イェン

敵の1人はドニー・イェン扮するジャンという男で、オープニングでも"パンドラの箱"を強奪していくシーンでその活躍ぶりが見られます。高層ビルにハイジャンプでガラスを突き破り、そのままブレイクダンスさながらに銃を乱射というのが冒頭にあるのだからたまらない。
ザンダーとジャンの初対面は、ジャンたちが潜伏している屋外のクラブみたいなところ。ここで2人はピンの抜いた手榴弾を転がす→すぐキャッチしてすぐにピンをはめる→またピンを抜いて転がす、という死のゲームを楽しそうにやっています。
次なる戦いではザンダーとジャンはバイクでのチェイスをします。そのままバイクは海に突っ込んでいくのですが、バイクの車輪のところにサーフボード的なものが出てきて、水上でもすいすい進めます。
まあ1作目からバイクで空飛んでたし、特に驚くことじゃないね!
この後もジャンは普通にトラックに轢かれたり、パラシュートなしで飛行機から落ちたりしますが、なんだか元気です。


他のキャストも軒並みヤバイ!

ザンダーと行動を共にする仲間として、アデル(ルビー・ローズ)という凄腕の女性スナイパーや、危険なカースタントをしてはネット動画にアップするおっさん、テニソン(ロリー・マッキャン)、テイラー・スウィフトとレディー・ガガと同じ日にデートしたという人気DJニックス(クリス・ウー)がいます。
そして、これまではキモオタ風もやしっ子がメカニック担当だったのですが、本作では女の子になっています。
ベッキー(ニーナ・ドブレフ)はリケジョでメガネ女子、しかもドジっ子属性も持っているというイカれたクレイジーたちの集団においてもしっかりインパクトを残してくれます。

敵サイドも上記のイップマンことドニー・イェン以外にも、「マッハ!」で話題になったトニー・ジャー扮するタロン、そしてザンダーの人を救おうという姿勢に心揺れる女性セレーナに扮するディーピカー・パードゥコーンはインド系美女で世界で最も美しい顔100人に選ばれたこともあるそうです。
あとなんか巨体の怪力の奴もいた気がする。(;・∀・)


敵の陰謀とは?

最初にジャンらに"パンドラの箱"を強奪された時の映像から全く動揺していなかったCIAの長官があやしいと見抜き、彼を追う一行。
長官が潜んでいたのは廃ビルでなぜかストーブをガンガンに焚いていました。これは実は熱感知で自分の居場所を知られないためというのが目的だったようで、賢いんだか賢くないんだかよく分かりません。
しかしザンダーのサインでアデルがザンダーの指の間を狙撃するというインポッシブルをやりとげ、CIA長官を仕留めます。
しかし、なぜかロシアの兵士たちに取り囲まれ、絶体絶命・・・。
そこに現れたのは・・・なんと、ダリアス(アイスキューブ)!

・・・

誰?

・・・

って、上の方に書いた第2作「トリプルX:ネクストレベル」の主人公ですよ!
とにもかくにもグレネードでぶっ飛ばせ!ってことで敵を一掃してくれます。
そんなことより、ザンダーがしれっと主役に返り咲いていたことで、興行的にも失敗に終わった2作目をなかったことにしたものと思っていただけに、これはサプライズでしたね。
電話で「9」をコールすると呼ばれるというジョーカー的な存在になっていたのですが、それを11年間待っていたという紹介もおもしろい。


黒幕

実は最初にザンダーにミッションを依頼したジョーンが黒幕だと判明します。そしてジャンたちトリプルXは"パンドラの箱"を盗み悪用したということでトリプルXは解散、彼らは葬り去られることになります。

・・・ジャンたちもトリプルXだったの???

この衝撃が大きすぎて黒幕の正体が完全に霞んでしまうのですが、そこにザンダーも駆けつけ、飛行機内での大バトルが始まります。
途中、流れ弾に当たってパイロットが死ぬため、飛行機は墜落していき、機内は無重力(!)に。
ここでのジャンの無重力バトルは最高です!
一方ザンダーもパンチ力増強スーツみたいの着たヤツと戦ってますが、テキトーにぶっ飛ばして終了です。

ジェーンが最後に"パンドラの箱"で人工衛星を落とそうとするんだけど、ザンダーが自分たちが乗っていた飛行機ぶつけて地上に激突するのを回避、なんやかんやでパラシュートで無事に脱出します。


衝撃のラスト

最後はギボンズの葬式に出席する一同ですが、テニソンのおっさんがやたら大きな声で賛美歌を歌っていると、ザンダーの後ろに現れたのは、ギボンズ!(とネイマール!)
特に説明はないけど生きていました!
ギボンズはザンダーに「ドープなやつでいろ!」とこれまた訳の分からない言葉を投げて終了です!


もはやスパイでも何でもないし、"パンドラの箱"も実は2つあった!みたいなことになってるし、もはや黒幕たちは影薄いだけじゃなくて、結局今回の事件は誰が誰に何を依頼したのかすらもシッチャカメッチャカになっているのですが、そんなことトリプルXの世界では気にしなくていいのです。
派手な見せ場さえあれば!

上記にも書いていますが出演陣も実に多彩です。
特に美女軍団がやばい!

ベッキー→リケジョ、メガネ女子、ドジっ子
セレーナ→正統派美人
アデル→カッコいい系美人、百合
エインズレー→オタク、アングラ系美人

一方、男性陣も

ザンダー→ヒスパニック系マッチョ
ジャン→いぶし銀カンフーファイター
ニックス→イケメンDJ
タロン→イケメンタイ人格闘家
ダリアス→黒人カリスマラッパー
ネイマール→稀代のストライカー

とこれまたズラリ!

今年のアカデミーでは多様性が1つのキーワードだったように思いますが、本作は「ムーンライト」をも凌ぐ多様性を誇っています!
人種もジェンダーもジャンルも超えた究極の脳筋映画、ここに爆誕!
プロフィール

すぷーとにく0107

Author:すぷーとにく0107
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中の人は、北海道は札幌市在住です。
映画館で年間200本は映画を観ます。
当ブログでは、映画のレビューをしつつ、勉強している心理学ネタでも書いていけたらいいなと思っています。

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