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「ハードコア」感想。


(公式HPより引用)

[story]
あなた[ヘンリー]は、ある研究室で目を覚ました。傍らには白衣姿の女性エステル(ヘイリー・ベネット)がいた。エステルはあなたの妻で、あなたは瀕死の状態だったところからサイボーグとして蘇ったのだということを聞かされる。事態をうまく飲み込めない中、研究室が超能力を操るエイカン(ダニーラ・コズロフスキー)という男らの武装集団に襲われ、エステルが拐われてしまう。ジミー(シャールト・コプリー)という謎の男にも助けられ、あなたはエステルを探し、失われた自分の記憶を取り戻すことができるか・・・。

全編を主人公の一人称視点で描いた体感型バイオレンス・アクション。監督は、パンクバンド“バイティング・エルボーズ”のフロントマンにして、これが長編デビューとなるロシアの新鋭、イリヤ・ナイシュラー。

一人称視点で描いた作品は、P.O.V.(Point of View)と略されるように、いくつかの映画で取り入れられ話題となっています。

最初に話題になったのは、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」でしょうか。
魔女の伝説の噂を確かめるために森に入った学生の運命を描いた同作では、主人公たちが自分でビデオカメラを回していたという前提なので、彼らと一緒に森をさまよい歩くというのが疑似体験できるようになっています。

そして、「パラノーマル・アクティビティ」では、超常現象の起こる家を舞台に、その原因を突き止めるべく家の中に多数のカメラを設置し、そのカメラの映像で構成するという形になっていて、これもP.O.V.の一種と言って良いでしょう。

他にもスペイン発のホラー映画「REC」シリーズやジャパニーズ・ホラーでも「POV(ピーオーヴィ) ~呪われたフィルム~」なんて、タイトルにもPOVって入っちゃてます。

ホラー映画以外だと、突如として襲ってきた謎の怪物の恐怖を描いた「クローバーフィールド -HAKAISHA-」では、たまたまパーティーのためにビデオカメラを回していた主人公がそのままカメラを回し続けるという前提になっていますし、「クロニクル」では、超能力を身に着けた主人公たちがその記録のためにビデオカメラを回しています。

と、並べてみると話題作が多いという印象ですが、P.O.V.のメリットはやはりカメラの視点がそのまま観客の視点となるので、臨場感が出る、自分も映画の中にいるような印象になるというのが大きいでしょうか。ホラー映画で多用されているのも恐怖感を増幅させるのにつながっていますし。

ただ、これらの作品は、「登場人物の1人がカメラを持っている」「劇中に出てくるカメラの映像がそのまま映し出されている」という形なので、主人公が自分にカメラを向けることもあれば、カメラの範囲内に入り込むこともあるので、厳密な意味ではPoint of Viewではないとも言えます。
鏡などにでも映さない限り、自分の姿を自分の目で捉えることが出来ないので当然といえば当然なのですけどね・・・。

さて、本作は、完全なるP.O.V.と言えるでしょう。

主人公が気がついたら、研究室にいて、白衣の女性に話しかけられるところからスタートするのですが、自分の姿は手とか足とか、体の部分は映りますが顔は全く見えません。

事態が飲み込めないまま、この白衣の女性エステルから、彼女は自分の妻であること、自分は瀕死の重症で、体をサイボーグ化して蘇生したことを伝えられますが、その刹那、謎の武装集団に襲撃され、自分とエステルはなんとか脱出するも、エステルは敵に捕まってしまいます。

自らも敵の追手に狙われて絶体絶命のところ、謎の男ジミーに助けられるが、生命を維持するためのバッテリーが切れ掛かってると言われ・・・。

とまあ、とにかく怒涛の展開で、見ているものも一体どういう状況になっているのかも、このあとどうなるのかも全くわかりません!

主人公はサイボーグ化しており、戦闘の基礎プログラムがインプットされているので、結構強い!冒頭で記憶が無い中で敵と戦い続ける「ボーン・アイデンティティー」のジェイソン・ボーンもそうでしたが、本作では完全に超人の域です。

敵味方問わず、結構グロいシーンも多く、このP.O.V.というかF.P.S.(First Person shooter、一人称視点のシューティング、アクションゲームを指す)といった方が良いようなめまぐるしい展開に、慣れていない人はかなり酔います!(断言)

このあたりはロシアで作られているということもあるのか、とにかく容赦なしです。
監督はロシアのパンク・バンドのフロントマンで、映画自体はこれがデビュー作となりますが、自身のバンドのPV(Biting Elbows - 'Bad Motherfucker' 。PVはこちら)でも同様の視点で作ったものがあり、それを上手いこと映画に仕上げたという印象です。

音楽系の人だからか、音楽の使い方も上手で、疾走感あふれる演出はたまらない。特に予告でも流れていたQueenの「Don't stop me now」の高揚感がたまらないです!
公式のトレイラー見るだけでもアガってきますよ!
こちらからどうぞ!

出演陣も主人公が画面に登場しない代わりに、脇をしっかり固めてくれています。
エステル役のヘイリー・ベネットは昨年、「ガールズ・オン・ザ・トレイン」「マグニフィセント・セブン」で話題になった注目女優ですが、本作でも主人公の唯一といっても良い原動力の源として存在感を発揮しています。

そして主人公を助けてくれるジミーは、「第9地区」「チャッピー」などに出演した異色俳優シャールト・コプリーが演じていますが、彼の変幻自在っぷりはまさに本作の魅力となっています。
とにかくよく死ぬ。そしてまた出てくる!笑
ちょっと何言ってるかわからないと思いますが、本作見れば分かります。(;・∀・)

F.P.S.視点なので、映画好きよりもむしろゲーム好きな人が見たら思う存分楽しめるんじゃないでしょうか。
ちょうど今自分もF.P.S.として構成されている「バイオハザード7」をやっているのですが、敵から攻撃食らって消毒薬で回復するシーンは本作と完全に一致のレベルです!てか監督絶対ゲームもやってるな。

「キングスマン」「96時間」ジェイソン・ボーン・シリーズが好きな人、F.P.S.視点のゲームが好きな人にはオススメです!

上のあらすじも公式HPにならって、主人公目線で書いてみました。
ぜひご覧あれ!(^O^)/
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「ひるなかの流星」から考える接近-接近型葛藤とその解消



「ひるなかの流星」では、主人公のすずめ(永野芽郁)が、担任教師の獅子尾(三浦翔平)と同級生の馬村(白濱亜嵐)の両方からアプローチされ、心揺れるという構図になっています。

これが両者とも超絶イケメン、自分に対して優しい、と、世の女性なら誰もが羨むような状況になっています。

このように、2つ以上の相反する欲求や意向があり、その選択や判断が困難で、不安定な状態のことを、葛藤(コンフリクト, conflict)と言います。

Lewin(1935)は、この葛藤を3つに分類しています。
1つ目は、回避-回避型葛藤で、2つの対象に負の誘因がある、つまり、2つの選択肢があってそのどちらも選びたくないけれど、どちらかを選ばなければならないような状態を指します。
例えば、目的地に行くためには急な坂を登るか、それともかなり遠回りするか、どちらかでしか行けないなんて場合が該当します。
2つ目は、接近-回避型葛藤で、ある1つの対象に正の誘因と負の誘因、両方の側面があるというものです。例えば、ケーキは美味しいけれど、食べると太ってしまう、というような場合が該当します。

そして3つ目が、接近-接近型葛藤で、2つの対象にそれぞれ正の誘因があるけれど、どちらか1つを選ばなければならない状況です。まさに本作のすずめが置かれている状況がこちらになります。

この接近-接近型葛藤で問題となるのは、どちらか一方を選んだ時に、選ばれなかったもう一方の選択肢から得られるメリットや魅力的な部分が気になってしまうということです。
Brehm(1956)では、選択が終わった後で選ばれなかった方の選択肢の評価をさせたところ、選択前よりも魅力度などの評価が高くなっていることが示されました。
まさに、「隣の芝生は青い」というのと同様で、自分が選ばない、選ぶことができないとなると、その選択肢の悪い点よりも良い点の方が気になってしまうんですね。

なんとか自分が選んだ選択肢の良いところに目を向けられるようになると良いですね。

[引用]
Brehm, J. W.(1956). Postdecision changes in the desirability of alternatives. Journal of Abnormal and Social Psychology, 52, 384–389.

Lewin, K.(1935). A dynamic theory of personality, selected papers, New York: McGraw Hill.

「ひるなかの流星」感想。


(公式HPより引用)

[story]
家族の都合で田舎から東京の高校に転校してきた与謝野すずめ(永野芽郁)。初めての東京で迷子になっていたところを助けてくれた獅子尾(三浦翔平)は彼女の担任の教師だった。"ちゅんちゅん"と呼んでくる軽いノリの獅子尾に戸惑いを感じながらも、その優しさに惹かれていく。一方、すずめが勇気を出して友だちになって欲しいと言ったクラスメイトの馬村(白濱亜嵐)は、最初は無愛想だったが、徐々にすずめのことが気になりだして・・・。

やまもり三香の同名コミックの実写映画化。
監督は「潔く柔く」「四月は君の嘘」の新城毅彦。

原作は全く知らなかったので、登場人物が全員何らかの動物が入っているということに意味があるのか、とかはよく分からないのですが、スウィーツ映画もしっかりカバーするのが当ブログ、というよりは中の人の個人的なこだわりでもあるので、いそいそと見に行きましたよ。

基本の構図は先生と生徒の恋愛、三角関係といったテイストの恋愛映画なので、そこに特に真新しさは感じません。
三浦翔平扮する獅子尾先生が先生には見えないぐらいチャラいので、先生と生徒の禁断の愛という印象が薄れているぐらいですかね。

恋のライバルとなるクラスメイトの馬村に扮するのは、EXILE、GENERATIONSの白濱亜嵐なのですが、彼はLDH製作映画以外の出演歴はそれほどなく演技力的な面が気にならないわけではないのですが、キャラクターが無愛想という設定なので、見ていてそれほど違和感を感じることはありません。

ともあれ、本作は永野芽郁を観る映画ですね。
田舎から出てきた当初のいもっぽさから、やがて山本舞香扮するイケてる系女子・猫田ゆゆかの手ほどきもあり、メイクや着こなしが洗練された姿へと変貌を見せてくれます。
あまり周りに流されない自分を持っているというキャラも本人のイメージにマッチしている印象でした。

もちろんスウィーツ要素も満載です!
本作では、上着貸し、ホタル放ち、カーテンくるりん、壁ドン、頭ポンポン、いきなりキス、あすなろ抱きなどをしっかりとご用意しております!

極めつけは、終盤の体育祭のシーンで、獅子尾と馬原がすずめを賭けてリレーでバトる!かぁ~~~!!!

かつて女子高生だった皆さまは誰もが憧れたはずのシチュエーションがここにはあります!
男性の方は、まあ、なんとなく想像で楽しみましょう!(;・∀・)

「モアナと伝説の海」から考える承認欲求



本作では、海に愛されし少女モアナが島の人々を救うため、伝説の半神マウイとともに大海原へと旅立つのですが、モアナと出会った当初、マウイはかなり尊大な態度を取っています。
もちろん自分が半神(半分は神様)ということもあるのでしょうが、それ以上に虚勢を張っているようにすら映ります。

序盤から、音楽に合わせて「どういたしまして!」と言い、相手に感謝の意を強制したり、自分の存在感をやたらとアピールしたりします。

このように、他人から認められたいという気持ちのことを、承認欲求と言います。
最近ではSNSで過度に自己アピールしたり、「いいね!」などのリアクションを必要以上に求めたりするのも承認欲求の現れだとも言われていますが、本来は社会的に生きていく上での重要なエネルギーの源泉とも考えられていました。

Maslow(1943)は欲求の段階説を提唱し、人間の欲求は階層構造をしており、生存欲求(生理的欲求)、安全欲求(安全に対する欲求)、所属欲求(愛情と所属に対する欲求)、尊厳欲求(自尊心に対する欲求および他者から認められたいという承認欲求)、自己実現欲求(自身の目標達成に対する欲求)の5つが存在しているとしました。
尊厳欲求に、他者から認められたいという承認欲求が含まれています。
今でこそ、Maslowの欲求段階説は、その区分の厳格さ(Maslowは生存欲求が充足されてから安全欲求が芽生える、というようにこの階層にこだわっていました)は否定されてきていますが、それでも人間の根源的な欲求の1つとして、承認欲求があるということには変わりはありません。

そこで今回はマウイのキャラクターを題材に、承認欲求について考えて見たいと思います。

1. さみしがり屋は承認欲求が強い!

諸井(1985)では、高校生を対象に孤独感と自己意識についての関連を調査したところ、特に男子の高校生において、孤独感が高い者は、自尊心などの評価が低くなっていることがわかりました。
つまり、自分を孤独だと感じる者は自分で自分の価値をうまく見出すことができないということです。
マウイがモアナに偉そうな態度で接するのも、寂しさを覆い隠すためだったのかもしれませんね。

2. 自己中心的、自分好きな人は、承認欲求が強い?

自分が一番、自分が大好きなんてタイプの人は承認欲求が強いのではないかと思われがちですが、小塩(1997)では、自己愛傾向とまわりから注目されたい、褒められたいという注目・賞賛欲求の関係を調査したところ、自己愛の強い者は、注目・賞賛欲求が低いという予想とは異なる結果になりました。
これは、自己愛が高い人は自分の自分に対する評価がそもそも高いため、特に周りから注目されようとしたり、賞賛を集めようとしたりする意識が低いからだとも考えられています。

逆に言えば、自分で自分の評価がうまくできないからこそ、他人の評価、とりわけ他人に注目されたり褒められたりしたいということにつながるわけで、昨今のSNSで犯罪行為になるような武勇伝自慢だったり、バイト先での度を超えた行為なりをアップするのも、そういった自信のなさの現れかもしれません。

マウイも神から授かった釣り針が壊れて、自分の変身能力が失われてしまうと、それとともに自信さえも喪失したようになってしまいました。しかし、最終的にはモアナを助けることで自信も回復しているように、やはり他人の評価よりもまずは自分自身の評価をしっかりと認識し、自分らしさを持つことのほうが大切ですね。


[引用]
Maslow, A. H.(1943). A theory of human motivation. Psychological Review, 50, 370-396.

諸井克英(1985). 高校生における孤独感と自己意識. 心理学研究, 56,
237-240.

小塩真司(1997). 自己愛傾向に関する基礎的研究 -自尊感情、社会的望ましさとの関連-. 名古屋大學教育學部紀要. 心理学, 44, 155-163.

「モアナと伝説の海」感想。


(公式HPより引用)

[story]
神秘的な伝説が息づく南海の楽園、モツゥヌイ島。16歳の少女モアナは、海と特別な絆で結ばれていたが、外洋に出ることを禁止されていた。ところが、半神半人のマウイが命の女神テ・フィティの“心”を盗んだために生まれたという暗黒の闇が島にも迫ってきて、モアナは祖母タラに背中を押され、マウイを見つけ、テ・フィティの盗まれた“心”を返すべく大海原に旅立つのだった・・・。

ディズニー最新作は、「リトル・マーメイド」「アラジン」のジョン・マスカー&ロン・クレメンツ監督が、南海の楽園を舞台に少女モアナと伝説の半神半人マウイの冒険を描いたアニメ。

2010年、「塔の上のラプンツェル」あたりから、ディズニー映画の方向性なのか、これまでのヒロイン像から変化してきたように思います。
いつか白馬の王子様が迎えに来てくれるのを待つ深淵のお姫様、から、個性を持ち自ら冒険に乗り出す積極的で勇敢な女性へと変わってきています。

2013年の歴史的ヒット作「アナと雪の女王」でも、アナとエルサの姉妹という2人の個性としてかつてのお姫様像(エルサ)と新しい女性像(アナ)の療法を描いていました。

そして本作ですが、主人公はさらなる進化を遂げています。
白馬の王子様を待つ系→自分から白馬の王子様を探す系自分で白馬に乗っちゃう系、なんてたとえると分かりやすいかと思いますが、主人公のモアナは幼い頃から海に愛され、自分もいつか大海原に乗り出したいという気持ちで一杯で、やがて島の人々を救うため大航海へと旅立ちます。

モアナ(アウリイ・クラヴァーリョ、日本語版は屋比久知奈)は島で幸せに暮らしながらも海への憧れが強かったのですが、父トゥイ(テムエラ・モリソン、日本語版は安崎求)はかつて仲間を失った苦い経験から、外洋へ出ることを禁止していました。

やがて、島が伝説の魔物テカァによって魚が取れなくなり農作物も育たなくなってしまったため、モアナは意を決して外洋へと舟を漕ぎ出すのですが、高波にさらわれなんとか命からがら島へと戻ってきます。

そんな様子を見ていた祖母のタラ(レイチェル・ハウス、日本語版は夏木マリ)から、テ・フィティの心を渡され、伝説の半神マウイを見つけ出し、ともにテ・フィティの心を返しに行くことを告げられます。

こうしてモアナはマウイを探し、マウイとともに大海原の大冒険ということになるのですが、このあたりはまさにディズニーの真骨頂で、クライマックスまで観ているものをグイグイと引き込んできます。


圧倒的なビジュアル

舞台が海ということで、波や、水の飛沫などの表現はもちろんですが、モアナの髪などの細部に渡るまでのCGの完成度が高い!さらにモアナは海の不思議な力によって守られているのですが、それもまた水の独特な表現によって描かれています。
ジェームズ・キャメロン監督の1989年の映画「アビス」でも海底で出会う不思議な生命体として水の表現が素晴らしかった記憶がありますが、そこから20数年たって、CGアニメでも違和感なく再現できるようになっているのですね。

敵も味方も!魅力的なキャラクターの数々

本作もキャラクターの面で魅力的な存在は多いですね。
敵として最初に出てくるのは、海賊カカモラ。彼らはココナッツの実のような生き物で集団でモアナとマウイに襲い掛かってくるのですが、どこかコミカルな上に、このシーンは完全に「マッド・マックス 怒りのデスロード」!
次なる敵として出て来るタマトアはカニの怪物ですが、光っているものを集め、それで自分を装飾するという自己顕示欲の強いキャラになっています。同じく光りもの好きニフラーに可愛さでは敵いませんが、インパクトのあるキャラクターとなっています。
それからモアナと一緒に旅することになるヘイヘイというニワトリ。
こちらはディズニー映画の相棒らしくなく、全く良いところなしのドジっ子なのですが、それが終盤に・・・。
そして、マウイの全身には多くのタトゥーが刻まれているのですが、これは半神である彼がこれまで人々にしてあげたことが伝説として体に刻まれていて、リアルタイムで変化していくマウイのタトゥーもまたマオイ以上に雄弁にコミカルに語ってくれます。

モアナとマウイの成長の物語

そしてディズニー映画といえば登場人物の成長が描かれることも多いのですが、本作でもバッチリ描かれています。
モアナはたどたどしい航海技術だったのですがマウイに学ぶことで徐々に舟の操縦がうまくなっていきます。一方のマウイも最初は尊大な態度を取っているばかりなのですが、相手の心を理解するようになり、さらには失っていた自信も取り戻すようになります。

意図的なリフレイン

本作では同じような表現、同じような描写が繰り返し出て来る印象があります。しかし、その意味合いが全く異なっているのです。
モアナは最初、好奇心から外の海に出たいと思っていましたが、やがて、島のため、人々のために海に出るという使命感を持っての行動となっています。
マウイもモアナと会った当初は尊大な態度で、何もしていないのに「you're welcome!」(どういたしまして!)と言っていたのですが、終盤に出てくる同じセリフはまさに言葉通りの意味合いとなっていました。
そして主題歌「How Far I'll Go」は劇中でも何回か流れますが、序盤は果てしない世界への希望を表しているかのようですが、終盤は目的を果たすことが出来ない失意を表しているかのようで、これもまた場面によって表されている心情が異なっているのです。

Know Who You Are

こちらももう一つの主題歌と言える劇中歌ですが、自分が何者か、というのはまさに本作のテーマです。
モアナは序盤から自由に冒険に出たい本心と、将来の村長として人々を守っていかなければならない使命とに揺れています。これはラストのモアナにも通じていきます。
一方のマウイも、半神として尊大な態度をとっていましたが、神に与えられた釣り針の効力を失ったことで自信喪失し自分自身の存在意義すらも疑問に思ってしまいます。そんな彼もモアナに認められ、さらにモアナを助けることで自信を回復していくのです。


という非常に素敵な冒険譚に仕上がっているのですが、不満があるとすれば日本版のポスターや映画の売り方ですね。
海に愛されし少女モアナ、というのをピックアップしているのはいいのですが、海と戯れるファンタジーみたいな雰囲気を醸し出していて、ポスターからはマウイの姿を排除しています。
これ冒険物語だから!なんなら「マッド・マックス」だから!
変にハートマークやらせるぐらいならV8ポーズにしろや!
・・・

あ、すいません、思わず我を失っちゃいました。
ディズニー映画はどうしても女性客の割合が多く男性客の足が遠のく傾向があったのでオリジナルではあまり男性、女性を意識させないデザインなのですが、その意義が日本版では感じられないのが残念ですね。

というわけで、男性でポスターからなんとなく敬遠していた方はぜひ御覧ください!

「グリーンルーム」から考える組織コミットメント



「グリーンルーム」では、売れないパンクバンドの主人公たちがネオナチの巣窟にもなっているライブハウスの楽屋で死体を発見してしまったことから、そこに閉じ込められ、ネオナチ軍団からの決死の脱出を試みるという作品でした。

本作がここまで評価された要因の1つとして、主人公たちと敵の設定があると思うんですよ。
まず主人公たちは売れないパンクバンドで、ライブハウスに行くにもガソリンを入れるお金がないから停めてある車から盗み出したりもしています。無名のバンドなので、このライブハウスで失踪したとしても誰も気に留めないというのが、彼らの命を保証していないことになります。

そして、敵はネオナチ軍団という設定なのですが、これが極めて秀逸。
白人至上主義とか、ネオナチの極右的な思想を取り入れているというわけではないんですが、彼らが目的のためには手段を選ばない、という姿勢が打ち出されています。

自分が所属している組織や集団に対して、心理的な距離を近いものだと捉え、組織そのものは従事する仕事や作業内容、さらには組織の目的が自分の考えや行動理念とどれぐらい一致しているかによって決まる組織への志向性のことを、組織コミットメントと言います。

Allen & Mayer(1990)では、組織コミットメントを以下の3つに分類しています。

1. 情緒的コミットメント
自分が所属している組織や集団に対して、どれぐらい愛着を感じているか、組織の持つ価値観や目標が受容でき、その組織の一員として活動したい、組織に所属していたいという気持ちがどれぐらい強いか。

2. 存続的コミットメント
その組織や集団を離れることによるリスクが大きく、辞めることによるデメリットを回避すること自体が所属の目的となりうるか。組織を離れた際に新たに所属する組織や集団などの選択肢が少ないかどうか。

3. 規範的コミットメント
その組織や集団に所属することに義務感を感じたり、組織を辞めることに罪悪感を感じたりするか、辞めた方が良いと考えられる状況でもその組織に所属していたいと感じるか。

これらの組織コミットメントが高い人ほど、集団に対して貢献をすることが多く、メンバーの組織コミットメントが高い=組織のパフォーマンスが高いということにつながると言われています。

ただ、組織コミットメントが高いことでまた新たな問題が生じる場合もあります。
特に、規範的コミットメントが高すぎることで、たとえ自分にとっても良くない状況や境遇であるにも関わらず、その組織をやめられないということに陥りやすくなります。
いわゆるブラック企業でもその会社を辞められないというのは、この規範的コミットメントの影響が強いと言われています。

また、本作のネオナチ軍団のように、極端な意見の人物が集団を形成することで、その集団の考え方や判断、行動も極端なものになりやすいという傾向があることも知られています。

このことは集団極性化というのですが、以前のこちらの記事「ちはやふる」から考えるチームワークと集団極性化」で書きましたので、興味のある方はぜひそちらも読んでみてください。

人種問題とかを抜きにして、極端だけど統率の取れた危険な集団に囲まれているのだから、主人公たちの絶体絶命なところがわかりますね。

[引用]
Allen, N. J., & Meyer, J. P. (1990). The measurement and antecedents of affective, continuance and normative commitment to organization. Journal of Occupational Psychology, 63, 1-18.

「グリーンルーム」感想。


(公式HPより引用)

[story]
マイナーなパンクバンド、"エイント・ライツ"は、知人の紹介でようやく出演が決まったオレゴンの僻地のライブハウスに出向く。しかし、そこは狂気のネオナチ集団の巣窟だった。 殺伐とした雰囲気の中、演奏を終えたバンドメンバー達だったが、バックステージで殺人現場を目撃してしまう。そのまま楽屋に閉じ込められてしまったメンバーに、ライブハウスのオーナーは口封じのために始末するよう命令された部下たちが襲い掛かってくる・・・。

監督は「ブルーリベンジ」で注目の新鋭ジェレミー・ソルニエ。
出演は、不慮の事故で亡くなった「スター・トレック BEYOND」のアントン・イェルチン。共演はイモージェン・プーツ、アリア・ショウカット、パトリック・スチュワートら。

グリーンルームとは、楽屋のことで、本作はまさにこの楽屋が舞台となっているソリッド・シチュエーション・スリラーなわけです。

「ブルーリベンジ」は不勉強ながら未見なので、本作がこの監督作の初めてとなりますが、はたして。

ていうかもうね、パンクバンドとネオナチの戦い、楽屋に閉じ込められるソリッド・シチュエーション、という設定だけですでに面白いこと決定!と思ってしまうんですが、ソリッド・シチュエーションで話題になった作品といえば、まずは「CUBE」ですね。
気がついたら謎のキューブ状の部屋に閉じ込められた主人公たちがトラップだらけの空間を脱出するという設定でした。
それから、「SAW」ですよね。
これも気がついたらバスルームにつながれていた2人の男と1つの死体。なぜこんな状況にいるのか、どうしたら脱出できるのかを探すというものでした。

この2作に共通しているのは、不条理な状況ながら、その詳細な説明や背景を極力カットし、決死の脱出を試みるという一点のみにストーリーの軸を絞っているというところですね。

そして、本作もまたプロット自体は極めてシンプルです。
ネオナチ軍団に閉じ込められた楽屋から決死の脱出を試みる、これだけです。
でも、面白いんです!

バンドが知人のつてで紹介されたライブハウスが、ネオナチの巣窟というだけでもヤバイ雰囲気ムンムンなんですが、そこで演奏する曲もネオナチをディスってるような歌詞だったりと、ピリピリと緊張感が高まっていきます。

なんとか演奏を終えて、一安心、と思った矢先、忘れ物を取りに戻った楽屋でネオナチバンドの追っかけ的な女性の死体が!
思わぬ形で目撃者となってしまったバンドメンバーは、そのまま楽屋に監禁されてしまいます。
携帯電話も没収されてしまい警察はおろか外部との連絡もできなくなってしまいます。
切り札と言えば、ローディー(殺人の犯人?)から銃を奪い、それを武器に彼を人質にしていることだけです。
また、ネオナチたちも、この殺人の犯人を主人公たちになすりつけようとしているので、いきなり銃を乱射ということはしてこないということだけが救いです。

という絶体絶命の状況なのですが、囚われの身の彼らは外部で何が行われているかはわかりません。
これは我々観ている側のみが第3の視点として知ることができるのです。このあたりはコーエン兄弟の「ブラッド・シンプル」なんかを思い起こさせますね。

数的には圧倒的に不利、しかも相手は武器もたくさん持っている、この絶体絶命の状況からいかに脱出するのか?

敵の設定をネオナチにしているところで得体の知れない恐怖感を高めることに成功しています。
最初に警察もやってくるのですが、チンピラ同士の小競り合いが原因だったとして、ネオナチの部下にほんとにナイフで怪我を負わせて、犯人役も用意することで警察を信用させる狡猾さ、周到さを見せつけることで、主人公の置かれた状況をより絶望的なものへと高めています。

終盤はややトーンダウンしますが、ここまでの緊張感と、(おそらく)限られた予算の中ながらも良く出来た設定とでグイグイと引き込んでくれます。
まだ40歳と若い監督なので、今後の作品も期待ですね!

「たかが世界の終わり」から考えるきょうだいの関係性



「たかが世界の終わり」では、劇作家の主人公が、自分の死期が近いことを知らせるために、12年ぶりに帰った故郷で、家族との距離感や隔絶を描いた作品になっていました。

主人公のルイは、とりわけ兄のアントワーヌからは事あるごとに言いがかりをつけられ、それが家族の口げんかの火種ともなっていました。

ということで今回は、きょうだいの関係性についてです。

Mazumder(2008)によれば、兄弟が両方とも、経済的、教育的に成功をおさめるケースがほとんどなく、どちらか一方が成功しているというのが半数のパターンで、残りの半数はどちらも成功とは言えないというパターンであったそうです。
本作でもルイは売れっ子作家として成功を収めていますが、アントワーヌの方はそれほど裕福な感じには見えません。
この原因としては、親は自分の子どもに対して、期待できそうな方にシフトした投資をする傾向がある、つまりは期待できる子には塾に通わせたり、家庭教師をつけたりする一方で、期待できない子にはそういったことをしないというわけです。
わたしも姉がいるのですが、塾とか留学とか行っていたのは姉の方ばかりだった記憶が・・・(;´Д`)

本作では親の養育態度にどのような違いがあったかはわかりませんし、ルイとアントワーヌの対立は他にも原因があるのですが、このような経済的な格差、というよりは境遇の差といった方が良いかもしれませんが、それがこの関係に拍車をかけたのは一理あるでしょうね。

このように、きょうだいの関係において、親の接し方や育て方に差があることで、その対象への嫉妬心がコンプレックスとして他者との関係にも影響をあたえることを、カイン・コンプレックスと言います。
アントワーヌがルイに限らず癇癪持ちで激昂するタイプなのも、ここに原因があるかもしれませんね。

Lampi & Nordblom(2009)では、きょうだいの片方が経済的に成功することで、満足度が高まる一方で、もう一方のきょうだいは将来的な不安を抱く傾向が強いということが示されています。

このあたりは西川美和監督作「ゆれる」の兄弟関係にも似ていますね。東京でカメラマンとして成功した弟と、田舎でほそぼそとガソリンスタンドで働く兄という構図がまさに本作とも合致しています。

このように、きょうだい間の格差の原因は、親がきょうだいを比較したり、片方を優遇したりすることで浮き彫りになっていくのですが、そうでなくとも一番身近にいる他人として、本人同士が比較しあうのは極めて自然なことです。
このきょうだいの関係が良好なものである場合には、その競争もお互いを高め合う1つの材料となります。
ルイとアントワーヌはうまく行かなかったようですが、ぜひとも良い化学反応を起こせるような関係でありたいですね。

[引用]
Lampi, E. & Nordblom, K.(2009). Money and success – Sibling and birth-order effects on positional concerns. Journal of Economic Psychology, 31, 131-142.

Mazumder, B.(2008). Sibling similarities and economic inequality in the US. Journal of Population Economics, 21, 685–701.

「たかが世界の終わり」感想。


(公式HPより引用)

[story]
病気で自分の死期が近いことを知らせるために、12年ぶりに故郷に帰った人気作家のルイ(ギャスパー・ウリエル)。母のマルティーヌ(ナタリー・バイ)と妹のシュザンヌ(レア・セドゥ)は戸惑いながらもオシャレをして帰りを待ちわびていた。浮足立つ2人とは対照的にそっけない態度の兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)だったが、その妻で初対面だったカトリーヌ(マリオン・コティヤール)は優しく接してくれる。当たり障りのない会話をしながらも、なかなか病気のことを打ち明けられないルイだったが・・・。

「わたしはロランス」「Mommy/マミー」のグザヴィエ・ドラン監督が、38歳の若さでこの世を去ったフランスの劇作家ジャン=リュック・ラガルスの戯曲を豪華キャストで映画化した家族ドラマ。

天才。

良く使われる表現ですが、個人的にはヤベエ!とかスゲエ!とかと並んでなんとも陳腐な褒め言葉のようにも感じてしまって、使うといかにも自分のボキャブラリーの貧困さを示すようで嫌なのですが、ふとして、この言葉以外の形容が思いつかない存在がいます。

たとえば先日の記事「虐殺器官」の原作者、伊藤計劃なんかもそうですが、本作の監督グザヴィエ・ドランもまさしくそれに該当する人物です。
「マイ・マザー」を監督、主演し映画化したのが弱冠20歳のときで、その頃からカンヌ映画祭で絶賛されると、その後も家族、とりわけ母親との関係に悩む多感な青年の姿を描く作品を次々と映画化しています。
そんな彼の最新作が本作「たかが世界の終わり」となりますが、「トム・アット・ザ・ファーム」以来となる自分の脚本ではなく戯曲の映像化となりました。

グサヴィエ・ドラン監督の作品の特徴として、家族を中心に据えて、(セクシャルマイノリティなどの理由により)周囲に理解されない、打ち解けられない人物の葛藤がテーマになっているのですが、それ以上に、その独特な表現技法でも話題となっています。
前作の「Mommy/マミー」では、画面のアスペクト比を1:1という正方形のサイズにすることで、独特の閉塞感を打ち出すことに成功しています。
さて、本作はどのようになっているのでしょう?

ここからレビューになっていますが、非常に奥の深い作品ということもあってネタバレも含みつつの考察となります。
未見の方はぜひ映画鑑賞後にお読みください。また、一考察なので解釈が間違っていたり、実際と違っていたりという可能性も大いにありますので、ご理解ください。


本作では、主人公のルイが12年ぶりに故郷に戻るところからスタートします。その目的は、自分の死期が近いことを家族に伝えること。早朝の空港で時間を潰し、タクシーで実家に戻ることにしたルイに、待ち受ける家族は大慌てで準備をします。
母親のマルティーヌは料理の準備をしながらも自分のメイクも気にしていて、マニキュアが乾かない!と焦っています。
妹のシュザンヌも母に負けじとおめかしをしてルイの到着を待ちます。
一方、常に苦虫を噛み潰したような表情を見せるのは兄のアントワーヌ。そして彼の機嫌を気にしながらも初対面となる義理の弟を待ちわびるアントワーヌの妻カトリーヌ、というのが家族構成で本編の登場人物全員(!)です。

で、彼らが感動の再会を果たした・・・という展開ではなく、このあとは地味な会話のシーンが続いていきます。
この会話において登場人物の関係性が分かってくることになります。

当たり前ですが、本来家族が再会した時に、「オレがルイのアニキのアントワーヌだ。よろしくな!」なんてことは言いませんよね?
本作でもルイが初対面となるカトリーヌ以外は関係性はおろか名前すら名乗らないので、事前情報がない状況では何一つわからない設定になっています。
自分もアントワーヌは最初は父親役かとも思いましたし(;・∀・)
映画が進むに連れて、それぞれの関係性が明らかになっていきます。

妹、シュザンヌ

彼女は純粋にルイが帰ってきたことを喜ぶ存在です。
彼女が幼い頃にルイは家を出てしまっており、たまに絵葉書をくれる優しい兄、脚本家として成功を収めている憧れの兄といった見方なので、母と鏡台の前を奪い合いながらいそいそとおめかしする気持ちも頷けます。
それだけにルイの帰郷を快く思っていない兄アントワーヌとは激しい口論を繰り広げます。
その服装をアントワーヌに「売春婦か!」と言われるように派手な格好をしており、はすっぱな性格をしています。

兄、アントワーヌ

妹とは対照的にルイの帰郷を快く思っていません。
序盤では朴訥で無神経なキャラクターなのでそのように見えて、それゆえ浮かれ気分の妹や母親にも毒づくのですが、やがてそれがルイに起因するということが分かってきます。

母、マルティーヌ

彼女もまたルイの帰郷を喜び、手料理を用意しながら自分のオシャレも気にするといった浮かれた雰囲気を出しています。
ただ、12年も帰ってこなかった息子の突然の帰郷には何か理由があるのではないかと、心の底では思っているようです。
シュザンヌとアントワーヌの衝突もなんとか穏便に済ませようと場の空気を取り持つのに必死ですが、どうしても昔話(ルイが12年も帰ってきていないので仕方ないのですが)にばかり花を咲かせてしまいます。

兄嫁、カトリーヌ

唯一の肉親ではない存在で、ルイが故郷を離れている間にアントワーヌと結婚したので、ルイとは初対面となっています。アントワーヌとは対照的に内向的な落ち着いた性格のキャラクターとなっています。その性格ゆえか、今回の帰郷で唯一ルイが心を許して本音で話しているような印象でした。

ルイ

彼は劇作家として成功しますが、病気により死期が迫っています。そのことを伝えるために12年ぶりに帰郷します。
アントワーヌやカトリーヌの話、ルイの当時のエピソードから、ゲイであることが分かります。
非常に温厚な性格で、アントワーヌに怒鳴られたり、アントワーヌとシュザンヌが口論したりしているのを黙って微笑みながら見つめています。

マルティーヌが話題を探し、アントワーヌが突っかかり、シュザンヌが癇癪を起こし、カトリーヌがなんとか場の雰囲気を和らげようとするのを、ルイは微笑みをたたえて傍観しているといったある意味地獄の団らんが繰り広げられます。
ルイもルイで本音を出すことはなく、今回の目的である「自分の死期が近いことを伝える」こともままならないままに、他愛もない会話が繰り広げられていきます。
この会話の多さはもちろん戯曲が原作であることにも由来するのかもしれませんが、何かしゃべっていないと気まずい感じにある関係性とも受け取れます。
知らない人と同じ空間にいると気まずいから、何か話題を探す・・・そんな感じに似ています。

なんだかストーリーらしいストーリーがないと思われるかもしれませんが、展開に影響を与える要因について、以下に書いていきたいと思います。


父親の不在とルイの家出

これは本作に限らずグザヴィエ・ドラン監督作に共通しているのですが、父親が物語に登場してきません。本作でも詳細は明らかにはされませんが、死去したことになっています。唯一、ルイの回想で父親に遊んでもらっているようなシーンがあり、ルイもかつて住んでいた家に行ってみたいと言うように、ルイの父親へのイメージは良いものなのでしょう。
対して、アントワーヌからすれば父親を亡くしたことで男手一人という状態になって、家族を支えなければならないということもあったでしょうが、ルイがゲイであるということでいろいろ形見の狭い思いもしてきたのでしょう。その風当たりもあって自分が大変なのに、ルイは故郷を離れ、家族からも離れて、悠々自適に暮らしているというのが我慢ならなかったということは容易に想像がつきます。


音楽は雄弁に語る

なかなか本心をさらけ出さない家族ですが、それを代弁するかのように、音楽は直接的に心情を表現してきます。
オープニングは、フランス人歌手のCamileが歌う「Home is where it Hurts」という曲なのですが、タイトルからして、"家は傷つける場所"ってなってますからね。歌詞でも居心地の良い場所とは限らないんだよっていう内容になっています。
中盤、キッチンで会話をしている時にマルティーヌが昔話を懐かしそうに語るときに、みんなで踊ったのよ~、といって流れるのが、O-Zoneの「Dragostea Din Tei〜恋のマイアヒ〜」!
日本人なら、のまのまイェイ!っていうあの癖になるフレーズでおなじみの曲が思いっきり流れます!(若い方は知らないかもしれませんので、参照はコチラ!のまのまイェイ!
この場違い感もまた状況に絶妙にマッチしているのがすごいところ。
グザヴィエ・ドラン監督はもともと音楽の使い方も大胆なところがあって、前作「Mommy/マミー」でもoasisの「wonderwall」を重要なシーンで使っています。ちなみにこの曲が使われているシーンは映画全体を通して、いや、その年に見た映画すべてひっくるめても一二を争うぐらいに大好きなシーンです。ぜひ「Mommy/マミー」本編でお確かめください。
そして、エンディングに流れるのがMobyの「Natural Blues」。
こちらでは、「神よ、これはひどい事故だ。」と繰り返し歌われていて、彼ら家族の、そしてあのラストシーンを象徴しているかのようです。そして「神様以外は誰も知らない。」というのは、まさにルイの心情を表していると言えるでしょう。


ルイの死期が近いことを知っているのは・・・

ルイの目的は、自分の死期が近いことを知らせることでしたが、結果的には家族の前で言い出すことができず、アントワーヌの激昂に半ば追い出される形で家を後にします。
そのため、この事実を明確に知った人物は誰もいません。
特に、シュザンヌはそもそもルイが帰ってきた理由すら思いついていなかったでしょう。
マルティーヌも直接的な確認はしていませんが、12年帰ってこなかった息子が突然帰ってくるからには何らかの理由があるぐらいには気づいているのでしょう。
この事実に目ざとく気がついていたのはカトリーヌでした。
彼女はルイに「あとどのぐらい?」とぼかしつつも直接的な質問を投げかけています。
最後にアントワーヌですが、彼も知っていた可能性は高いです。
終盤でルイに、かつての恋人が死んだことを伝えるシーンがあるのですが、もしその恋人がエイズだったとしたらルイもエイズの可能性があるから・・・と考えて、ルイも病気なのではと考えていたのかもしれません。だからこそ、カトリーヌがルイと挨拶のキスをするのを躊躇したり、12年ぶりの家族の集合にアントワーヌとカトリーヌの子どもたちを連れてきていないのかもしれません。


名前の意味するもの

ルイ、マルティーヌ、シュザンヌ、アントワーヌ、カトリーヌと、本作の登場人物のうち、ルイだけ名前の系統が違います。
他はみんな"ヌ"(原語だと、"ne")で終わっています。
これもまた、ルイが故郷を飛び出して、家族とは離れて暮らしているということ、今はもはや家族の一員としては見られていないことを暗示しているかのようです。
カトリーヌは自分の子どもにルイの名前をもらったことを告げるシーンがあるのですが、その時に、「あなたの家では親の名前を子どもにつける習慣があるのね。」みたいなことを言っていました。
ここからは推測ですが、おそらく父親の名前がルイなのではないでしょうか?アントワーヌからすれば父親は自分ではなく弟の方に自分の名前をつけた=弟の方をより可愛がっていたと思い、ルイの脚本家としての成功以上に、父親の愛情を一手に受けていたところに嫉妬していたのかもしれません。ルイという名前も連想されるのはフランス国王のルイで、ルイ○世というように一族で名前が引き継がれていっているのもメタファーかもしれません。
それと同時に、ルイはゲイだから自分の直系の子どもを持つことができないから、アントワーヌとカトリーヌの子にその名前をつけたということも読み取れます。


たかが世界の終わり

元々の戯曲のタイトルは邦題では「まさに世界の終わり」となっていたのですが、映画の邦題は、「たかが世界の終わり」となっています。英語タイトル"only"(フランス語の原題だと"juste")の訳し方次第かもしれませんが、自分は映画版のタイトルの方がしっくりときました。
ルイは、自分の死期が近いことを知り、12年ぶりに家族の元に帰ってくるわけですが、温厚そうな性格とは裏腹にかなり自分本位で自己中心的なところがある存在です。
ここで家族の前で自分の死を告白することでやはり彼は家族の中心となります。まさに悲劇の主人公です。
家族と話すときにも自己陶酔的な部分があって、アントワーヌに空港のカフェでの出来事を話した時もそんな雰囲気でした(これはアントワーヌに、「オレがお前のカフェの話など聞きたいとおもうのか?」と一蹴されていますが)。
最後まで物語の主人公でいようとしたルイに対し、それを遮るのがやはりアントワーヌでした。夕食のときに告白をしようとするルイを「約束あるって言ってたよな。空港まで送っていってやる!」と強引にその告白の場面を打ち破ります。
それは自分に酔っているようなルイに、自分たちの家族の必死の生き様を演出の1つにさせないよという意思の現れのようでした。
その気持ちを汲んでくれないシュザンヌや、その気持ちを理解しつつもやはり息子であるルイを可愛いく思っているマルティーヌが声を荒げたことに対して、感極まったアントワーヌの嗚咽混じりの訴えがいたたまれません。

父親の死や兄の結婚といった家族の重要なイベントにも一切顔を出していないルイは、家族からすればもう死んでいたのも同然なんだ、という思いが現れているかのようで、たとえルイが死んでしまうことになっても、それはルイにおいては、たかが世界の終わりにすぎないのだということでしょう。
アントワーヌの嘆きとともに、ルイは自分のしてきたことの罪深さを実感するとともに、やや自罰的な意味合いもこめて、たかが世界の終わりと思ったのかもしれません。


とまあ、いろいろあとから考えさせられる、考えたくなるタイプの映画ではあります。
映画にそういう見方というか魅力というか、それを感じない人からすれば、単に家族が差し障りのない会話をしては口論になるというミニマルな世界をやたら登場人物のアップで見せられるということでうんざりしてしまうかもしれません。

本作のようないろいろあとで議論を呼ぶタイプの映画も、何も考えずに観るだけで楽しめる某トリプルXのような映画も、イケメンと可愛い子がイチャコラし続けるスウィーツな映画も、当ブログでは分け隔てなく取り上げていく所存でおりますので、今後ともよろしくお願いします!

「ラ・ラ・ランド」から考えるピークエンドの法則



「ラ・ラ・ランド」はミュージカル映画でありながら、肝心のミュージカルシーンは、オープニングの度肝を抜くようなハイウェイでのシーンがあり、その後はパーティーに向かうシーン、ミアとセブが夜景をバックにタップダンスをするシーン、プラネタリウムで空中を舞い踊るシーンと単発で出てくるぐらいです。

これは観ている側からすれば非常にフラストレーションが溜まる状態で、映画の方も2人はどうなるの???という状態でモヤモヤを抱えつつラストシーンを迎えることになります。

Kahneman(1999)は、実験参加者に以下の2つの条件をそれぞれ体験してもらい、もしもう一度やらなければならないとしたらどちらを選ぶかを調査しました。

A. 死ぬほど冷たい水に手を60秒ひたす。
B. 死ぬほど冷たい水に手を90秒ひたす。ただし後半の30秒は徐々に水温が上がっていく。

本来ならばAの条件の方が冷たい水に手をひたしている時間が短いので、そちらが選ばれそうですが、実験の結果は、Bを選んだ人が多くなっていました。

これは人が物事を判断したり評価したりするときには、その対象の最も絶頂である部分(ピーク)と、その対象の終了時の部分(エンド)が重要な材料となっているということを示しており、上記の実験では、ピーク(一番冷たいと感じる部分)は同様ですが、エンドでは、Bの条件の方が冷たさが多少和らいでいるため評価が高くなっている結果として、Bの条件の方が選ばれやすいとされています。

このように、あらゆる経験、とりわけ喜びや悲しみに関する出来事に対しては、絶頂期(ピーク)と終了時(エンド)が重要であるということを、ピークエンドの法則と呼んでいます。
簡単に言うと、終わり良ければ全て良し、っていうことになるんですが、本作でも中盤の我慢の時をへて、あの感動のラストへつながっているということで作品全体の評価も高まっている印象があります

デイミアン・チャゼル監督がこれを意図的にコントロールしているとしたら恐るべき才能ですね・・・。

[引用]
Kahneman, D. (1999). Objective Happiness. In Kahneman, D., Diener, E. and Schwarz, N. (eds.). Well-Being: The Foundations of Hedonic Psychology. New York: Russel Sage. pp. 3-25.
プロフィール

すぷーとにく0107

Author:すぷーとにく0107
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中の人は、北海道は札幌市在住です。
映画館で年間200本は映画を観ます。
当ブログでは、映画のレビューをしつつ、勉強している心理学ネタでも書いていけたらいいなと思っています。

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